書かれたオルペウス

  こんばんは、

  今回は、記述された「オルペウス」ということで、進めてゆきますが、、

 

  まずローマの地図から始めます、

  

                                     from ; orange smile

   すこし小さくなってしまいましたが、左中央にサン・ピエトロ寺院、

   まん中あたりにコロッセオ、フォロ・ロマーノ、ローマ市庁舎、

   そして、中央一番下、小さなピラミッドと左横の色の変わった、すこし斜めになった

   長方形部分、

   ピラミッドが執政官ガイウス・ケスティウスの墓(紀元前18〜12年頃建造)で、

   その横の長方形、イタリア語表記で、Cimitero acattolico、 非カトリック墓地です、、

 

   この場所、ローマ市街を囲む壁(アウレリアヌス城壁、紀元270年代前半に造られた)

 

 

  

                  from ; wikipedia

 

                       外側の囲い壁の内側、壁に沿った敷地にもうけられていますが、

          地図で見ると、いわゆる、一番南の、いうなれば西寄り、

          墓地としては、まさにふさわしい場所、、

 

   

                   from ; wikipedia

          城壁はピラミッドを利用して建てられています、

          ちょうど左手に見える木立のあたりに墓地が、、

 

 

   古くからこの地は墓地だったようですが、18世紀半ばにあるドイツ人医師(新教徒)が

   埋葬されて以後、プロテスタントを含む非カトリック者の埋葬場所になったようで??

   という文章をどこかで目にしたような、、

 

     実はこの墓地には4人の日本人も埋葬されていまして、

     明治初めにイタリア在駐公使であった人物の3人の幼い子供たちと

     同じく明治初期に大使館員のような仕事をしていた、著述家で翻訳家でもある

     人物、こちらは33歳でなくなっていますが、

     

        

                  from ; wikipedia

 

    少しづつ本題に近づいてゆきますが、

  この墓地にひとりのイギリス人が埋葬されています、その墓石が、

 

           

                    from ; wikipedia

   YOUNG ENGLISH POET  記され、埋葬された本人の名前が見えません、

   そのいちばん下の部分に

           Here lies One
       Whose Name was writ in Water.

 

         水に書かれた名前

         、いうなれば、、無名であり、すぐに消し去られる、とでも、、

         

       この部分、亡き本人の意思で書かれていますが、

       どうも、もとは、古い英国戯曲から取られているようです、

 

  さて、その人物 ローマで亡くなった英国詩人、ジョン・キーツ(1795-1821)です、

  かれは結核を患っており、友人の同じく英国詩人パーシー・ビッシュ・シェリー

  (1792-1822)の招きもあって、ローマで転地療養中に亡くなってしまいました、

  上の写真、墓石上部には竪琴が彫られています、

  竪琴は、オルペウス、アポロ、ヘルメス、そして先々回のブログでも触れましたが、

  エラトー、テレプシコラー、ひいてはミューズ、詩神たちの持ち物、、

 

  彼は25歳で亡くなってしまいましたが、その処女詩集とも呼ぶべき作品、

  4000行にもおよぶ長編詩ですが、そのなかにオルペウスが登場します、

  その部分、、

 

    イオルスの魔法の音を 解き放つとき、

    霧に閉ざされた墓石から いにしえの歌よみがえり、

    古謡のなげきが 歌人の墓の上を流れゆく。

    旋律に預言を託すあまたの霊が 陶酔の声あげて

    詩神の足跡を くまなく辿り巡りゆく。

    青銅の喇叭は息吹き返し、はるか昔の大戦の地に

    霊(かそ)けき布告の音を響かせる。

    また、幼きオルフェウスの眠れる地ことごとく

    芝生から 守歌が流れ出す。

    人にこれらのことが感じられようか?---その瞬間 人は

    それらと一体であるかのように、

    漂う霊のようになる。だが より豊かに

    心を巻き込むものがある。人の心をはるかに空しくし

    魅了するものがある。それは、徐々に、

    激しさの極みへと人を導いてゆく。その頂を飾るのは

    愛と友情であり、人間性の

    頭高くに坐している。

 

           エンディミオンより 

            イオルス、アイオロスとも、、 は風を支配する神 

 

   

             from : wikipedia

    実はこのキーツの墓、隣に彼と共にローマへやって来た友人の画家のセヴァンの

    (1793-1879)ものと寄り添うように設けられています、

    竪琴と対比するようにパレットと筆が彫られていますが、こちらの墓石にキーツの名が

    刻まれています、

 

          セヴァン、彼は異国ローマで最後までキーツを看取り、

     後年(1861年)には、イギリス領事にも任命されたようなひと、

     亡くなったのがローマということもあって、

     こうしてイギリスではない地にキーツと二人で埋葬されるという、、

     友情といってしまえば、言葉はそれで終わってしまいますが、、

 

     そうそう、ふたりのまん中にある小さな石は、セヴァンの息子の墓石であるとか、、

 

               、、、、

 

     煌(きら)めく星よ、わたしはなんじのように不動でありたい---

      だがひとり燦然として夜空の上に懸り

     永久に瞼をひらいて、

      あたかも「自然」にかしづき、眠ることのない隠者のごとく、

     動きやまぬ波が大地の人間臭い岸部をめぐり、

      これを神官のように洗いきよめる垢離(こり)の式を行うのを見守り、

     あるいはまた、山々や荒野に降りしいた

      新雪の柔らかいおもてを眺めるのにあらず---

     いや---そうではなく、いつも不動で、変わることなく、

      わが愛するひとのふくらみ熟する胸に枕して、

     その柔らかい高下を永久に感じ、

      楽しいおののきに」永久に目ざめ、

     常に、常にかのひとのやさしい息使いを聞き、

      そして常に生きたい---さもなくば、昏倒して死にたいものを。

     

  この詩、従来「最後のソネット」とよばれているもの、

  ローマへ向かう船がイギリス最南端ドーセットシャーに停泊中、

  自らが持つシェイクスピア詩集の空白の頁に書いていたものを

  浄書してセヴァンに手渡したものといいます、

 

    死の前年の 9月17日出航

    10月17日にナポリに到着しますが、検疫のため10日間

    船中に閉じ込められ上陸を許されません、

    11月上旬馬車でローマへ向かい15日に到着

    あのスペイン広場横の建物に落ち着きますが、

 

      現在ここは「キーツ・シェリー記念館」として公開されています、

      ここの表示プレートにも竪琴が、

 

          

                                     from ; pictures fromitaly.com

                                 

 

        

              右手の建物  from ; wikivoyage

 

     11月末には喀血、

     12月に入ると、発熱、病状悪化、

     翌年2月半ば、セヴァンに上記墓碑に彫り込む文字を指示しますが、

     上のプレートにも書かれていますが、2月23日午後11時、永眠します、(24日)

     26日に上記墓地に埋葬されます、

     石碑が建立されたのが3年後1823年

     セヴァンが亡くなったのが1879年、

     同年、上の記念館がオープンします、

 

                    、、、、                                                                                                          

 

 

  さてさて、そのキーツをローマに誘ったシェリー、

  (知り合ったのは1816年のこと)

  二人のその時の手紙のやり取りが残っていまして、

 

    まずは、シェリーの誘いの方から、、

    1820年7月27日、イタリア・ピサからのもの

 

     親愛なるキーツ

     あなたが遭遇された危険な災難ことを耳にして、痛ましい気持ちでいっぱいです。

     その話はギズボーン氏が知らせてくれたのですが、彼の話ではあなたは今も結核を

     患っている様子だとのこと。結核はあなたのようにいい詩を書く人間を特に好む

     病気でまた英国の冬という助けがあるものだから、患者を思うままに選択することが

     しばしば可能なのです。(中略)

     そのような恐ろしい災難にあわれたのなら、イタリアで冬を過ごされるのがいいと

     ぼくは思います。そして、ピサ及びその付近があなたの気に入るかぎり(ぼくが

     考えているようにもしあなたもその必要があるとお考えでしたら)ぼくたちのところに

     一緒に滞在していただくようシェリー夫人ともどもお願いする次第です。(中略)

     何はともあれ、あなたはイタリアを一度見るべきです。ぼくが動機として示唆した

     あなたの健康状態が、あなたにとっては口実になりうるでしょう。

     ---彫刻、そして絵画、そして廃墟について弁じたてることは控えておきます---

     そしてもっとも大きな我慢ですが---山々、川、平原、空の色、それに空そのもの

     についても、何も言わないでおきましょう---(中略、そして最後に)

     あなたが英国に留まるにしても、あるいはイタリアに旅をされるにしても、---

     あなたがどこに居て何をなさっているにしても、あなたの健康と幸福と成功への

     ぼくの切なる願いがあなたと共にあることを信じて下さい---

                     敬具  P ・B ・シェリー

                       (ハーバード大学ホートン図書館蔵)

 

    これに対するキーツからの返事、8月16日、 

    (ローマへ向けての出航の一か月前)ロンドン・ハムステッドから

 

     親愛なるシェリー

     外国におられて何かと気苦労の多いあなたが、今ぼくの手元にあるお手紙の

     ように書いて下さってとても感謝しています。あなたの折角の招きをもし今お受け

     しないとしたら、もうこの後では、確実なものとして内心に予想せざるをえない或る

     状況のために(結核)、駄目になるでしょう---英国の冬がぼくに止めを刺すことは

     疑いの余地がありません、それもじわじわと忌まわしい仕方で。ですからぼくは、

     海路でなり陸路でなり、兵士が砲列にむかって前進するように、イタリアへ是非

     行く必要があります。(肝心の内容は略しますが、最後に)

     お送りする詩集の大部分は、二年以上にわたって書かれたもので、お金のために

     出版したものです。(中略)

     あなたの御親切を深く感じていることをもう一度申しあげ、シェリー夫人への心から

     の感謝と敬意を申し添える次第です。近いうちに拝眉の機会のあることを願って

     います。

                      敬具  ジョン・キーツ---

                       (大英博物館蔵、現在は大英図書館蔵?)

 

               この時(7月)出版した詩集は、好評で売行きも良かったようで、イタリア行きの

       費用に当てられたとか、、

       しかし、翌年の死、、

     

     

  さてそのシェリー、キーツの死を、4月にピサの住居で知り、すぐに哀悼の悲歌を

  つくります、 そして、ピサで出版、

 

        

 

         55連、500行にも及ばんとする作品ですが、

         その冒頭、、   

 

                 1

      私はアドネーイスのために泣く---彼は死んだ!

      おう アドネーイスのために泣け! 涙が あの

      なつかしい頭をとざす霜を融かすことがなかろうとも!

      そしてあらゆる歳月から 私らの損失を悲しむために

      選ばれた おまえ 悲しい「時」よ、おまえの隠れた仲間を呼び起こし

      おまえの悲しみを教えよ---「わたしとともに

      アドネーイスは死んだ、未来が過去を忘れぬかぎり

      かれの運命と名声は 永遠に

     こだまやひかりとして伝わるであろうと!」と。

 

                 55

      かって歌にその力を願い求めた息吹が 私のうえにふりかかる。

      私の魂の小舟は、岸べからはるかに、

      嵐にまだ帆をさらしたことのない

      おののく群れから、とおく吹きはらわれる。

      巨大な大地と天球のような大空はひき裂かれている!

      私はやみくもに おそれつつ とおくへ運ばれる。

      「天空」の奥まった帳(とばり)を焼きつらねいて

      アドネーイスの魂は 星のように

     「永遠」の棲み家から 私をみちびく。

 

       

       アドネーイス( Adonais )

       ギリシア神話の美青年アドニス

       (ビーナスの愛人で、イノシシに襲われて落命その流れた血から

        アネモネがうまれたという)

       と、ヘブライ語アドナイ( Adonai ) 「主」を意味する、 の合成語とも、

 

   この詩作品、イギリス3大悲歌のうちのひとつとも言われ、

   たとえば、ローリング・ストーンズの1969年7月のハイドパークでのコンサートで

   直前に急死したブライアン・ジョーンズのためにミック・ジャガーが、その39連と

   52連の一部を朗読しています、、

 

                  39

       しずかに しずかに!かれは死んではいない かれは眠ってはいない--

       かれは 生の夢からめざめたのだ---

       激しい夢想におぼれ 幻影とむなしいたたかいをつづけ

       我れを忘れて狂ったように 魂の刃(やいば)で

       傷つくことのない無を撃つのはわれら---

       その私らこそが 納骨堂のしかばねのごとく朽ちていくのだ。

       恐怖と嘆きは 日々 私らを悶えさせ

       私らを焼きつくし、冷たい希望は

      私らの肉体のうちに 蛆虫どものように群がる。

 

                  52 

       「一」は残り、多は変化し消滅する。

       「天」の光は永遠にかがやき、「大地」の影は飛び去る。

       「生」は多彩なガラスの円蓋(ドーム)のごとく

       「死」がそれを踏みくだくまで

       「永遠」が放射する白光をいろどる---死ぬがよい、

       もしおまえが、おまえの求めるものと共にいようとするなら!

       あらゆるものが飛び去ったあとを追え! 

   

                 

                  、、、、

 

    

  話は最初に戻り、非カトリック墓地に戻りますが、、

  このシェリーの息子も、この墓地に葬られています、

  当時3歳のウィリアム、死因はあのマラリア(マラリアについては以前このブログで

  書きましたが、(2012,5,18   6,1) 2編ほど詩を残しているようですが、、

 

           わが失われしウィリアムよ  おまえの中で

           ある輝く魂が生きていた  また

           その輝きをかすかに隠していた

           か弱き肉体も尽き果てた

 

 

     そして、その当の本人シェリーもここに眠っています、

  この人の死因は溺死、

 

           

                 from ; wikipedia

   

     キーツの墓石とは異なって、地面に平たく置かれています、

     刻印されているには、

            彼が好きだったというラテン語 Cor Cordium  (Heart of Hearts)

     そのいちばん下には、これも彼が敬愛したシェイクスピア「テンペスト」より

   

        Nothing of him that doth fade  

        But doth suffer a sea-change

        Into something rich and strange.

 

        朽ち果てるべき身なれども、不思議な海の力得て、貴き宝になりかわる

 

 

       このふたつの言葉、それぞれ彼の友人たちが選んで刻んだもの、、

 

       彼が操縦していたヨットの船名が、エアリエル、、ドン・ジュアンとも

       エアリエル、、テンペストでこのセリフを歌う空気の精霊、

       なんとも、よく、つながったもので、、

        

         

 

   その溺死ですが、イタリア、レリチに住んでいたシェリー、

   船で、リヴォルノのバイロン(1788-1824)のもとへやって来た友人を歓迎に赴き、

   その帰りに嵐にあいます、

 

      それが、キーツの死の翌年、1822年7月8日午後、

      溺死体が海岸に上がったのが、18日、

      すぐにその場に防疫のため埋葬されますが、

      8月16日、再び掘り起こされて、火葬にふされます、

 

   

                from : wikipedia

                     ルイ・エドワール・フルニエ シェリーの火葬 1889年

                                   リヴァプール ウォーカー・アート・ギャラリー

 

         手前3人の人物、一番シェリーの近くにいるのがバイロン

         その左手にいる二人の人物がそれぞれに墓石の文字を選んだひとたち、

 

 

         シェリーのポケットには、キーツが贈った詩集が入っていたといいます、、

 

 

 

    そうそう、このシェリーも、オルペウスを歌っていまして、、、

 

                 、、、、

 

 

    すこし長くなってきました、バイロンやオルペウスの詩については、

    「つづく」 としておきましょう、、

 

 

       それでは、今日はこのへんで、、

 

 

          参考文献等

 

          対訳キーツ詩集 岩波文庫

          新潮社 世界詩人全集 4 キーツ シェリー ワーズワース

          キーツ 詩人の手紙 冨山房

          シェリー詩集 新潮文庫

          対訳シェリー詩集 岩波文庫

          キーツ エンディミオン  西山清訳 鳳書房

          古代ローマ遺跡の傍に眠る四人の日本人 

                 元駐中央アフリカ共和国大使  林 要一

   


オルペウス その死

  こんばんは、

  オルペウスを続けます、、

  まずは一枚の壺絵の写真から、

  

                                   from :  Vassil Bojkov Collection. Sofia  

                      BC,420-410

 

           女たちの手にかかってまさに死を迎えるオルペウス

 

    その死後、諸説ありますが、彼の首と竪琴は、ヘブロス河に投げ込まれます、

 

   

                                        from ; wikipedi

            

 

   地図中央上部に縦に書かれた青い文字 Hebros 

   現在ではマリツァ河と呼ばれるようで,バルカン半島最長、480km

   ブルガリアに発し、ギリシア、トルコ、そして再びギリシアを流れエーゲ海に至ります、、

 

  先回も登場しました、オウィディウスの転身物語には、

 

    その頭部と七弦琴は、ヘブルスよ、おまえの流れが受け入れた。

    すると、不思議なことに、七弦琴は、流れの中央を流れながら、かすかな

    悲しみの調べをかなで、死んだ舌も、なげきの歌を口ずさみ、両方の

    岸部が、悲しみながらそれにこだまを返した。

    こうして、頭と琴は、海へとながれくだり、ふるさとの河と別れて、

    メチュムナのあるレスボス島の海岸にたどりついた。

 

                 とあります、

         レスボス Lesbos  上の地図、下部右寄りの島

         河口からは200kmは離れていそうですが、

           

       女性詩人サッポー(BC7世紀〜6世紀)が女性に対する愛を歌った作品を

       残したことから、レスビアンの語源になった島ですが、

       この言葉自体は19世紀頃からのもので、、その他にも多くの文人を輩出

       しているのは、彼の首と弦琴が流れ着いたためという説も、、

 

      

                 from ;THEOI GREEK MYTHOLOGY

            Antikenmuseum Basel und Sammlung Ludwig, Basel

 

    こちらはレスボス島で彼の首を引き上げようとしているところ、

    左手には彼の琴を持って立つ母カリオペの姿が、、

    面白いのは、オルペウスがパッチリと眼を見開いている様子、、

 

 

   もう一枚作品を挙げてみますが、

   こちらは1866年のパリのサロン(官展)に出品され、そのままフランス国家買上げ

   となり、当時リュクサンブール公園内にあった国立近代美術館で展示されたもの、

   作者はギュスターブ・モロー(1826−98)、

   彼の生前に、一般公開された唯一の作品といいます、

       現在、オルセー美術館蔵

      オルフェウス(オルフェウスの首を抱くトラキアの娘)  154×99.5

         

      

                         from ; wikipedia

 

     弦琴の上にのった首を持つ女性、

     背後にはヘブルスの流れがみえ、

     右下には交互の向きの2匹の亀、

        亀は悠久の時を表すとともに、甲羅の形が天空、足がそれを支える柱とも、

     そしてすぐ後ろにはレモンの花

        哀悼の思いと神の慈しみ・栄光を表します、

     上部に描かれた岩山の上に、3人の人影がありますが、

     これを牧人たちと見るならば、ずっと以前に触れました、プッサンの

     フランス絵画の古典的名作「アルカディアの牧人たち」(2014.10.9.記)を

           連想させます、、

        3人の牧人と、女性と、墓石、この墓石の代りがオルペウスの首と弦琴、、、

       付け加えるならこのオルペウスのモデルはミケランジェロの「瀕死の奴隷」

       (ルーブル美術館蔵)の石膏マスクといいます、、

   

                              

                                            from ; pinterest

 

 

   

   このオルペウスの首と弦琴という組み合わせ、

   モローの創作かどうかは判然としませんが、以後これを踏襲する作品が、

      

      

            from ; Musées royaux des Beaux-Arts de Belgique

                       ジャン・デルヴィル(1867−1953)「オルペウスの死」 1893年 

               79.3×99.2      ベルギー王立美術館蔵

         海岸に流れ着いたオルペウス、、

         こちらは画家の夫人がモデルとか、、

 

   

   もう一枚、オディロン・ルドン(1840−1916)

 

       

                  from ; the cleveland museum of art

           アメリカ クリーブランド美術館蔵 66.8×56.8

                       1903〜10頃

     デルヴィルとは異なって山が背景、

     レスボス島にも900m級の岩山が聳えています、

 

     ルドンは生来あまり丈夫な方ではなく、結婚も40歳の時、その6年ほど後に

     念願の長男が生まれますが、その子を6カ月で亡くします、

     その3年後、49歳のときにやっと一人息子である次男をさずかります、

     

     この頃から彼の画風は色彩豊かになり、生命を謳歌するようなものに

     変わってゆきます、、

     この作品からも、死んだ長男、あるいは生まれた次男の命の息吹のようなものが、

     見えてきますが、、

 

     しかし彼の晩年、第一次世界大戦が勃発し、最愛の息子が出征してゆきます、

     そして、戦地で行方不明に、、

     ルドンは方々を尋ね移動する中、体調を崩し、風邪をこじらせて帰らぬ人に、、

     息子の生存を確かめ得ぬまま亡くなってしまいます、、

     この作品をみると、、、

 

                      、、、、

 

 

   さてさて、余談ばかりになっていますが、

   最後もそれを受け継いで、、

 

   南アメリカ、ウルグアイ出身の詩人・著述家のものから引用をしてみましょう、、

   彼の両親は共にフランス人、父方の兄弟の銀行を手伝うために来ていた

   ようですが、彼が生まれて8カ月の時、里帰りに帰国した際に、両親ともを

   水道管に含まれていた緑青が原因で次々に亡くしています、、

   その後2年ほどスペイン バスク地方に住む母方の祖母のもとに引取られますが、

   ふたたび、ウルグアイの伯父のもとでほとんど実子として育てられます、

   しかし、9歳のときに自分が養子であること、父母の死を知り、愕然とはするも

   翌年には再びパリへ移り中学へかようように、

   そんな中、10代の後半になると、ウルグアイの自然が忘れられず、毎年のように

   夏休みに帰っていたようで、結婚もここで知り合った女性とモンテビデオで

   しています、

   最終的にはパリを拠点としたようですが、、

 

   その人物、ジュール・シュペルヴィエル(1884−1960)

   彼は、いくつかの短編小説も書いていて、そのなかに 「オルフェウス」(1950年出版)

   と題されたもの、、8ページほどの短い作品ですが、その最後の部分を、、

            

              

                   from ; abebooks

                                           アンリ・ マチスの挿画です

 

 

    切り離されてもまだ音楽を宿す首と、波に浮く竪琴だけに帰してなお、

    詩人は、小さな声でエウリディケの愛を歌いつづけた。彼の唇は、

    死んでから数時間たつと、やがて来るべき詩人たちにしか理解

    できないような新しいイメージ、美しい響きをつぶやいていた。

    すぐそばにある竪琴はまだ主人に仕えようと、あやつる手もないまま

    霊魂の間欠的な息吹きにはじかれ、いまやひとりでに、まるで暗譜

    しているように、思い出をとぎれとぎれに奏でている。

    そして時おり波のうねりに運ばれてすこし遠ざかったかと思うと、

    次には、オルフェウスの頭に触れるまでに近づくのだった。 

 

   

    さても、とりとめもなく書いてしまいました、

    オルペウスの死に関してはまだ諸説あるのですが、、

 

     、、今日はこのへんで、  

 

   

         参考文献、新たに挙げるものとして

 

          シュペルヴィエル短編集「海の上の少女」 みすず書房

          野村喜和夫 「オルフェウス的主題」 水声社

          ジュヌヴィエーブ・ラカンブル 「ギュスターヴ・モロー」 創元社

          世界美術大全集 第24巻 世紀末と象徴主義 小学館

    

           


秘教 オルペウス

   こんばんは、

   オルペウスをすこし続けますが、

   まずは、ルーブル美術館にある石棺から

 

                                                     from ; musee du louvre

       ローマ時代、2世紀前半のものです、

       ナポレオンがイタリア・ローマから持ち帰ったもの(略奪)

 

   上下2段に分かれていますが、下段には9人の女性、

 

      ヘシオドス(紀元前700年頃活躍)の神統記に、

 

      彼女たちを ピエリアで 父神ゼウスに添寝して 生みたもうたのは

      エレウテルの丘陵を治めるムネモシュネ

      彼女たちを 災厄を忘れさせ悲しみを鎮めるものとして生みたもうたのだ。

      すなわち賢いゼウスは 九夜 彼女と臥せられた

      不死の神々から遠く離れたところで 彼女の聖い臥床にのぼって。

      だが一年が過ぎ 季節が巡り

      幾度も月がかけて あまたの日々が経めぐると

      彼女は 9人の娘を生まれた 娘たちはひとつ心をもち

      憂い心もなく 歌に心を注いでいる

      

     9人のムーサ(英・仏記述でミューズ)、文芸を司る女神たちです、

     、、(上部の浮彫は、ゼウスとムネモシュネの睦言の様子でしょうか、、

 

 

     下部、写真左人物から

       クレイオー  巻物・巻物入れを持つ、     歴史をつかさどる

       タレイア   喜劇用仮面・杖・蔦の冠、等   喜劇・牧歌

       エラトー   竪琴を持ったりする        独唱歌

       エウテルペー   笛               抒情歌

       ポリュムニアー                  賛歌・物語

       カリオペー    書板と鉄筆         叙事詩

       テレプシコラー  竪琴             合唱・舞踏

       ウラニアー    運天儀・杖・コンパス     天文

       メルポメネー   仮面・葡萄の冠・悲劇用の靴  悲劇

 

      このそれぞれの役割分担は、ローマ時代になってから確定したようで、

      ギリシア時代のものでは、各自の名前のみの表記しか見当たりません、、

 

 

   さて、その記憶の女神に対するものが、

   2度目の登場、レーテー(忘却)、(2012.7.6記)

   冥界の河、(この河の水を飲むと記憶を失うという) の名前でもあります、

   彼女、3姉妹のひとりで、他はタナトス(死)とヒュノプス(眠り)、ともいいます、、

   しかし、上記ヘシオドス「神統記」には、

 

      さて憎さげな争い(エリス)は 痛ましい労苦(ポノス)と

      忘却(レテ) 飢餓(リモス)と涙にみちた悲歎(アルゴス)たち

      戦闘(ヒユスミネ)どもと戦争(マケ)ども 殺害(ボノス)たちと

       殺人(アンドロクタシア)たち

      紛争(ネイコス)ども 虚言(プセウドス)たち 空言(ロゴス)どもと

       口争い(アンビロギア)たち

      不法(デユスノミア) 破滅(アテ)を生みたもうた これらはたがいに

       ひとつの心根の者どもである。

             

            とも書かれています

                     、、、、

 

 

 

   さて、この二人、記憶と忘却をあげたのは、他でもありません、、

 

     

                  from ; british museum

 

   南イタリア、ペテリアの墓跡から発見された、黄金板とその筒型ケースです、

   大きさは小さく4センチほどのもの、

        (黄金板は他にも様々な地域で発見されています)

   薄い板に文字が書きこまれています、、

 

    汝は冥府の家の左側に、一つの水源があり、その傍らに一本の白い糸杉が

    立っているのを見出さねばならぬ。その水源へは近づくではない。

    しかし汝は、追想湖のほとりに、いまひとつの水源を見出さねばならぬ。

    冷水が流れ出ていて、その前には番人がいる、彼らには次のように言え。

    「わたしは大地と星輝く天の子です。しかし私の民族は、天のみに属して

    います。これは、あなた方ご自身がご存知でしょう。ああ、わたしは喉が

    からからに乾いて、滅びそうです。追想湖から流れ出ている冷たい水を、

    早くわたしに下さいませんか。」

    すると彼らは、聖なる水源から呑む水を汝に与えるであろう、、、

 

   オルフェウス教徒の墓から出土したものです、

   最初の水源がレーテーと呼ばれ、追想湖からのものがムネモシュネ

   呼ばれます、

 

 

   オルペウス教、その特徴はまず、輪廻転生思想にありました、

   本来のギリシア宗教は神を不死のもの、人は死すべきものと、

   その違いを明確にしていましたが、オルペウス教は人も神と同等の起源から

   発生したものとし、死して後、魂は記憶を失って再び生まれ変わると考えました、

 

   ただ、この転生の繰り返しは、苦しみの連鎖とされ、

   これから解放されるための方法を秘教として伝えるもので、

   そのためには、

 

      1、殺生、肉食の禁止

         ギリシア世界では動物の生贄を神前に捧げることを励行していましたが、

         これを禁止、菜食を勧めます、

      2、身を浄める生活、禁欲生活を行うこと、

 

   たとえば、ヘロドトス「歴史」にもこんな文章が、

   彼が触れた唯一のオルペウス教に関してのものですが、

    

    エジプト人の服装は、脚の周りにふさのついたカラシリスという麻の

    肌着をつけ、その上から白い毛織の着物を羽織るようにして着ている。

    しかし毛のものは聖域へは身につけて入らず、遺骸につけて埋めたりも

    しない。それは宗教上禁ぜられているのである。この点では、いわゆる

    オルペウス教およびバッコス教(これらは本来エジプト起原である)、

    さらにはピュタゴラス派の戒律と一致するものがある。これらの宗派の

    密儀にあずかった者は、毛の着物をつけて葬られてはならぬことに

    なっているからである。

 

 

   プラトン、アリストテレスの著作をはじめてギリシア語から英語翻訳した、

   トーマス・テイラー(1758−1835)は1787年に「オルフェウスの神秘的賛歌」

   のなかに、すでにこんな文章を残しています、、

 

                

                              from ; sacred-texts

 

   

    オルフェウスその人に関しては、その人生の足跡は太古の時の流れに

    かき消されてほとんど知られていない。一体誰が彼の生れや年齢、国、 

    環境について確実なことを知り得るだろうか。だが次のことだけは一般に

    認められている通り確実なこととみなしてよい。

    カツテオルフェウスという名前の人間が生きており、ギリシア人のあいだで

    神学を創立し、彼らの人生と道徳の師となり、最初の預言者にして最高の

    詩人であったこと、彼自身ムーサの女神の子孫であり、ギリシア人に

    神聖な儀式と密儀を教えたこと、その知恵の尽きることのない豊富な

    泉からホメロスの神韻やピュタゴラス、プラトンの崇高な神学が生まれ

    出たのである。 

 

 

    

   

   さてさて、ここらで再びオルペウス本人に話を戻しますが、

   その最後について、、

   、、諸説あるようですが、

 

    1、亡き妻以外の女人を近付けないので、トラキアの女たちが侮辱されたと思い、

 

    2、女人を嫌って、美少年を愛したために、

 

    3、冥府より返った後、秘教会を創設し、女人をこれに入れなかったために、

 

    4、アフロディテーがペルセポネーと美青年アドニスをあらそった際、カリオペー

      (オルペウスの母)が、その審判者として公平にその所有を分けたのを、

      アフロディテーが怒って、その復讐に女たちをけしかけたため、

 

    

    女たちは、デュオニュソスの祭りで狂乱のうちにオルペウスを八つ裂きにしたと

    いいます、

 

    もうひとつあるお話は、

    ディオゲネス・ラエルティオスの「ギリシア哲学者列伝」の序章に

 

     しかしながら、哲学の発見を異民族に帰している人たちは、トラキア人の

     オルペウスをも持ち出して、彼は哲学者であったし、しかも非常に昔の人で

     あったと言っている。だがわたしとしては、神々に関してあのような(冒瀆的

     な)ことをあからさまに述べ立てた男を、果たして哲学者と呼んでいいものか

     どうか分からないのである。それにまた、およそ人間の受ける苦しみの

     すべてを、いや、二、三の人が舌先だけでまれに行うような淫らなことさえも

     平気で神々になすりつけている男を、何と呼ぶべきかを知らないのだ。

     ところで、この男は女たちの手にかかって死んだと物語は伝えている。

     しかしマケドニアのディオンにある墓碑銘には、彼が雷に打たれて死んだ

     ことが次のように記されている。

 

        黄金のリュラ琴もてるトラキア人オルペウスを、ムーサの女神たちは

         ここに葬りぬ。

        天高く君臨するゼウスが、火を吹く矢をもて彼を打ち殺したればなり。

    

       

         この文章どうやら2世紀末頃に書かれたようですが、

         反オルペウス思考が表にでています、、

         上でも触れましたが、この秘教、本来のギリシア多神教とは大いに?

         異なっています、、 

                    、、、、

 

       

    このオルペウス、殺された後にも話は続くのですが、

    すこし長くなってしまいましたので、

 

       今日のところはこのへんにしておきましょう、 

 

 

 

          参考文献 新たに加えるものとして、

 

             レナル・ソレル著 オルフェウス教 白水社文庫クセジュ

             バートランド・ラッセル著 西洋哲学史 1 みすず書房

             マンリー・P・ホール著 古代の密儀 人文書院

             ヘロドトス著 歴史 上 岩波文庫

             ポール・カートリッジ著 古代ギリシア人 白水社

             ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」上 岩波文庫

 

 

 


オルフェオ オルペウス

   こんばんは、

   レオナルドからすこし離れましょう、

   、、先回登場しました、オルフェオ に関しまして、、 まずは一枚の作品から、

 

   

 

      サー・エドワード・ジョン・ポインター(1836-1919)作 

         オルペウスとエウリディーチェ 1862年  個人蔵  550×385

 

           地上世界へ向かう二人のすがた、、

 

 

 

   アポロドーロスビブリオテーケー(ギリシア神話)に、、

 

     ビブリオテーケー Bibliotheke  本来は、書庫・図書館とでもいう意味合い、  

     アポロドーロスは紀元1世紀から2世紀のひとで、純粋に古いギリシアの著述に

     基づいて、この作品を著しています、

     全4巻あったようですが、3巻途中から欠落していて、現在残っている写本、

     14種ほどあるようですが、そのすべてが同じようにこの部分の無い状態、

 

       その14の写本、保管場所の内訳は、

 

          パリ、フランス国立図書館に4種

 

          オクスフォード大学、ボドリアン図書館に2種

 

          ヴァチカンに2種

 

          イタリア、トリノ王立図書館に2種

 

          以下各1種づつ

          ローマのバルベリーニ宮

 

          ナポリ国立図書館

 

          ロンドン、大英図書館

 

          フィレンツェ、ロレンツォ・メディチ図書館

 

               from; some manuscript traditions of the Greek clasics

 

 

     しかし、1885年になって、新たにヴァチカン宮で14世紀末頃書かれた写本が

     見つかり、それには上記14写本の欠落部分の要約が筆記されていました、

     そしてその2年後1887年には、現在はエルサレムの長老文庫に保管されて

     いるようですが、もとは、聖サバス修道院に保管されていた写本にも同じ

     要約の部分が発見されています、

 

          

                   from  vatican library

 

         こちらは、ヴァチカン図書館の要約部を含む写本

         装丁に三匹の蜜蜂を配した、教皇ウルバヌス8

         (在位1623−44年)の紋章(バルベリーニ家)が

         刻印されています、

         在位中に所蔵したのでしょうか?

 

     もう一枚画像をあげるなら、

 

       

                            from : publi mainq

 

         パレスチナの砂漠にそびえる聖サバス修道院、

         現在も修道僧たちが起居しているといいます、

                    、、、

 

 

   さて、前置きが長くなってしまいました、

   (いくらでも、のめり込んでゆく恐ろしい蟻地獄の世界からは離れて)、

   その、アポロドーロスのギリシア神話、オルペウスのくだり、、

 

     カリオペーとオイアグロスから、しかし名義上はアポローンから、

    ヘーラクレースが殺したリノスおよび歌によって木石を動かした吟唱詩人

    オルペウスが生まれた。

    オルペウスはその妻エウリュディケーが蛇に噛まれてなくなった時に、

    彼女を連れ戻そうと思って冥府に降り、彼女を地上にかえすようにと

    プルートーンを説き伏せた。プルートーンはオルペウスが自分の家に

    着くまで途上で後ろを振りむかないという条件で、そうしようと約束した。

    しかし彼は約を破って振り返り、妻を眺めたので、彼女は再び帰って

    しまった。

 

    オルペウスはまたディオニューソスの秘教(ミュステーリア)を発見し、

    狂乱女(マイナデス)たちに引き裂かれてピエリアーに葬られた。

     

     

   いたってシンプルな記述です、

   

   このオルペウス神話、先回ブログで紹介しましたように、世界初のオペラ演目に

   なるようですが、その後もこの主題でのオペラが続いてゆきます、

   すこし列記してみますと、、

 

         最初の作品はは先回登場しました「オルフェオ」、1480年マントヴァ宮で初演、

    

    1、1600年10月6日、作曲は再登場ヤコボ・ペーリとカッチーニ

      「エウリディーチェ」

      フィレンツェ、ピッティ宮殿、ドン・アントオーニオ・デ・メディチの私室にて、

      フランス王アンリ4世とマリー・ド・メディシスの結婚を祝って、

      もちろん、アンリ4世は不在、代理人をたててのもの、

 

    2、1607年、モンテヴェルディ作曲、マントヴァ宮にて、

 

    3、1617年、ローマにて、ステファーノ・ランディ作曲、

      「オルフェオの死」

 

    4、1646年3月、パリ、ルイージ・ロッシ作曲、

      ルイ14世治下、といえども国王はまだ7歳、パレ・ロワイヤル(王宮)にて

      マザラン枢機卿肝いりで初演、

      作曲家はこの時フランスに亡命していた枢機卿アントーニオ・バルベリーニに

      仕えていた人物、  このアントーニオ、上記ウルバヌス8世の甥にあたります、

      2012年11月6日のブログにて既にふれていますが、

      ヴェネツィアから舞台装置家ジャコモ・トレッリを呼び寄せて大掛かりな上演に

      なります、

 

    5、1726年、テレマン作曲、ハンブルグのオペラハウスで、

      ハンブルグ市の依頼にて製作、

 

    6、1762年、グルック作曲、ウィーン・ブルク劇場で初演

      「オルフェオとエウリディーチェ」

      この楽曲、日本ではじめて、日本人演奏家により上演された歌劇となります、

 

 

   古い順に6つほど挙げました、、

   内容・あらすじに関しては、それぞれに異なっているようで、、

   たとえば、1番、結婚式の演奏では、友人たちの前へオルフェオ、エウリディーチェ

   二人して冥界から戻り喜び合うという設定、

   3番では、ひとり現生に戻ったオルフェオが再び死に、冥界に降り三途に川の渡し守

   カロンの宴席で、忘却の河の水を飲んでしまい、エウリティーチェの記憶を失い、

   父でもあるアポロに救われ、天界へ昇るというもの、、

   6番のものでは、エウリデ―チェを冥界から戻せず、自殺しようとするオルフェオの前に

   愛の神アモ―レがあらわれ、ふたたびエウリディーチェに命を与え、一同が喜ぶ中、

   幕がおりるというもの、

    、、すべて、いうなれば、ハッピー・エンド、、

 

    さてもこれだけ演題として挙げられたのは?

    主人公オルフェオ自身が音楽家歌い手であること、、

    愛と死と別れ、そして復活いう永遠のテーマに関していること、、等々、??

 

 

   ここで、最初に登場しましたギリシア神話に戻りますが、

   高津春繁著「ギリシア・ローマ神話辞典」のまえがきにこんな文章が、、

 

    ギリシアの神話や英雄伝説は、ホメーロス以来幾多の古代の文学者、神話、

    系譜、歴史、哲学、宗教の学者が繰り返し取り扱い、そのたびに内容が

    変わっている。ギリシア悲劇を見てもすぐわかるように時代や作者とともに

    神話伝説の内容が改新されるのがその特徴である。ギリシア神話伝説が

    あの見事な物語を創り出し、今日にいたるまで生命を失わないのは、しかし

    このためである。その上神話伝説は地方によって伝承が相違している、

    まったく相反する話が異なる地方にあったり、同じ話が違った風に各地で

    伝えられている。詩人や哲学者や歴史家は勝手に解釈する、系譜学者は

    諸家の系譜をつじつまを合わせるために、勝手に変更し、いもしない人を

    付け加える。紀元前3世紀以降になると、ロマン的風潮が強くなって、

    新しい恋物語ができあがる。多くの都市はその始祖を勝手に神話伝説中に

    求める。ギリシア神話中の英雄がむやみやたらにイタリアに行かなければ

    ならなかったのはそのためである。

    ローマでもオウィディウスやウェルギリウスなどの詩人が勝手に都合の良い

    ように当世流に変更する。こういう風に混合してできあがったのが近世以降

    の欧州のギリシア・ローマ神話世界である。

 

 

   さて、そこでウェルギリウスの「農耕詩」(紀元前29年頃完成?)からオルペウスが

   振り返って、エウリディーチェを見てしまう場面、、

 

     だが、その時突然、愛するオルペウスは、無分別にも狂気に捕らわれた。

     もしも死霊が許すことを知っているなら、まことに許される狂気だが、

     彼は立ち止り、愛妻のエウリュディケを、もう光明の域に達する寸前に、

     何とわれを忘れ、決意もついえて、振り返ってみた。そのとき、すべての、

     苦労は無駄となり、無慈悲な支配者との約束は

     破られ、アウェルヌス湖には、三度轟音が鳴り響いた。

     エウリュディケは言った。「なんとういう狂気が、オルペウスよ、不孝な私と

      あなたを破滅させたの?

     その恐ろしい狂気はいったい何?ほら冷酷な運命がふたたび

     私をよびもどしています。もう眼は宙を泳いで、眠りに覆われていきます。

     ではもう、さようなら。私は果てしない夜に包まれて、

     力なく両手をあなたに差し延べながら連れ去られます。ああ、もはや

      あなたの妻ではなくなって」。

     彼女はこう言うと、まるで希薄な空気に混じる煙のように、

     たちまち見えなくなり、かなたへ去ってしまった。オルペウスが

     妻の影をつかもうとし、なお多くの言葉を語りかけようとしてもむなしく、

     その姿を、彼女をもう見ることはなかった。

 

   そして、もうひとつ、オウィディウス「転身物語」(紀元8年頃)の場合、

 

     そして、地表の縁からそう遠くないところまで来たとき、やさしい良人は

     妻がおくれはしまいかという心配と妻の様子を見たいという気持ちから、

     ついに後ろをふりかえってしまった。すると、妻は、たちまち後ろへひき

     もどされた。あわてて腕をのばし、良人につかまえてもらい、また良人を

     つかまえようとやっきになったが、つかまえることのできたのは、あわれ

     にもつかまえどころのない空気ばかりであった。こうしてふたたび死の国へ

     つれもどされながらも、かの女は、良人のことをすこしも怨まなかった。

     というのは、自分が愛されていたということ以外に、なにを怨むことが

     あったであろうか。かの女は、良人に最後の挨拶をつげた。しかし、

     それはもう良人の耳にとどいたかどうかわからない。彼女はふたたび

     もとの場所へ落ちていったのであった。

 

   おそらくオウィディウスはウェルギリウスを読んでいたでしょうから、こういう書き方

   になったのかもしれませんが、、

   

   後に初代ローマ皇帝アウグストゥスによって流刑にされ、

   妻を伴ってゆくこともかなわず、時間もなく追いやられるようにローマを去った、

   オウィディウスをここに見てしまいます、、

 

 

 

   さてさて、3種の文章を挙げましたが、

   いかに最初のアポロドーロスがシンプルか、

     (オウィディウスにいたっては4ページにも及びます、)

   しかし、書かれたのは3つの中では、これが一番最後のようです、、

 

     

    今回は、いったい何のお話が本題だったのでしょうか?

 

 

    それでは、今日はこのへんで、

 

       次回は、アポロドーロス曰く、「秘教」のお話をと、思ってはいるのですが、

          

                       、、、、

 

      

        参考文献

        

         アポロドーロス「ギリシア神話」高津春繁訳 岩波文庫

         高津春繁「ギリシア・ローマ神話辞典」 岩波書店

         ウェルギリウス「牧歌・農耕詩」小川正廣訳 京都大学学術出版会

         オウィディウス「転身物語」田中秀央・前田啓作訳 人文書院

         戸口幸策「オペラの誕生」東京書籍

         ヘシオドス「神統記」廣川洋一訳 岩波文庫

                           他

    

 

 

 

 

 

 

 

 

     

    

 

 

   

 

   

 


音楽家たちとレオナルド、そして

   こんばんは、

   今回は二度目の登場になりますか?レオナルド?の作品から、

 

       

             from : wikipedia

         「 音楽家の肖像」 1485年頃 アンブロジアーナ美術館 ミラノ

     未完成ということもあってか、レオナルドの作品ではないという

     こともしばしば言われます、、

     

       当初この作品はレオナルドの信奉者である

       ベルナルディーノ・ルイーニ(1481or2-1532)が描いた

       ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの肖像であると言われていましたが、

       20世紀初頭に行われた絵の洗浄によって、

 

       

       

       手にしている紙片に文字と楽譜が浮かび上がり

       

               Cant Ang  

 

           つまり、Canticum Angelicum 天使の歌

 

       と読みとれることにより、描かれたのが当時ミラノ大聖堂聖歌長であった、

       そして、レオナルドの友人でもあった、フランキーノ・ガッフーリオ(1451-

       1522)の肖像ということで、一応は落ち着いているようです、(異説有)

       

       彼、ミラノ南東ローディ生まれですが、すでに1460年(9歳?)にはミラノ大聖堂

       聖歌隊に入り、1473or4年には聖職につき、その後、地元ローディ大聖堂歌手

       マントヴァ・ゴンザーガ家で音楽理論教諭、ジェノヴァ元首アドルノの教諭兼

       作曲家、ナポリでの音楽活動を経て、何冊かの音楽理論書を執筆し、

       1483年には、ベルガモ大聖堂聖歌隊長、翌年にはミラノ大聖堂聖歌隊長、

       1492年にはギナジウム音楽教授、そして、パヴィア大学教授に、、、

 

                                          、、、、

 

 

   当時、音楽家たちは、より良き待遇を求めてもあってか、各地を転々としていました、

   たとえば、もう一人あげるなら、当時のヨーロッパで最も重要な音楽家・作曲家の

   ひとり、ジョスカン・デ・プレ(1450 or 55-1525)も、レオナルドがミラノを訪れた際、

   当地に滞在中で、おそらくレオナルドとも言葉をかわしているでしょうが、生まれは

   フランドル地方、1474年頃には、先回登場のミラノ公ガレアッツォ・スフォルツァの

   招きでやって来ています、

       このガレアッツォかなり勢力的に音楽家を集めたようで、たとえばナポリ駐在

       大使に宛てての手紙が残っていて、

          「とりわけ王や他のひとたちが、歌手を引き抜こうとしているのが   

          われわれであることを悟られることのないように、くれぐれも注意されたい」

       と、書いています、、

   ガレアッツォ暗殺後、何人もの音楽家たちが、ミラノを離れる中(たとえばフェラーラへ)

   彼はミラノに滞在し続け、ガレアッツォの弟アスカーニオ・スフォルツァ枢機卿に

   雇われ、ローマへ(1486−94)、その後、ルイ12世の招きでフランスへ(1501−3)、

   その1503年には、再びイタリアにもどりフェラーラ滞在、しかしペストを避けて、翌年

   には、生まれ故郷フランドルに戻ります、、

 

 

   さて、最後にもうひとり、レオナルドと共にミラノにやって来たアタランテ・ミリオロッティ

   (1466-1532)、彼1491年には、おそらくレオナルドと共に?、マントヴァへ、そして、

   この地でオペラの主演歌手を務めます、

   演目は、ギリシア神話をもとにした「オルフェオ

   史上最古のオペラ作品ともいわれるものです

   (楽譜は完全な形で残っていないようですが)

   初演時主演は別の歌手でしたが、その二人目の歌手にミリオロッティが選ばれます、

        作詞は当代随一といわれたフィレンツェの詩人、再登場ポリツィアーノ

        (1454-1494)、作曲はマントヴァ宮廷で活躍していた4人のイタリア人音楽家

        達のおそらくは共同作業といいます、

 

 

        レオナルド、アランデル手稿に「オルフェオ」のためのスケッチがありまして、

 

              

                                       from; teatronovecento

 

            下部分の拡大ですが

 

         

                                    from:A.C.N.R.

   

         山が左右ふたつに割れて、中が冥界になるという舞台装置、

         この床の部分に、その下から人物が昇ってくるというものも

         考えていたらしく、現代のものとほとんど変わりません、、

 

       ただ、このスケッチどうやら1506〜08年頃に書かれたようで、

       このマントヴァでの公演に使われたかどうか?

       ただし、もう一回ミラノで、このスケッチが書かれたのと同じ頃に、当時

       ミラノを統治していたフランス人シャルル・ダンボワーズ(1473−1511)

       のために演じたという記録もあるようです、

 

 

   話がすこしそれてしまいましたが、ミリオロッティ、このひとは、ここマントヴァで

   ミラノに帰るレオナルドとは別れ、宮廷に残ります、、

   その後の詳しい動向は残っていないようですが、1513年になってローマ

   レオナルドと再会、この時彼は、ヴァチカンの建築工事の検査官という職務に

   ついていたとか、、

   この年の3月に教皇に就任していたレオ10世(1475−1521)は、

   、、これまた大の音楽好き、、

   

                     、、、、

 

 

   さてさて、そろそろ本題に入ってゆきますが、レオナルド、1517年死の2年前、 

   フランス、アンボワーズの彼のもとに、イタリア人枢機卿ルイジ・ダラゴーナ

   が訪れた際のことが、その秘書の手で書かれています、

  

     1517年10月10日閣下とわれわれの一行は、アンボワーズのある町外れに

    今日もっともすぐれた画家、フィレンツェ人レオナルド・ダ・ヴィンチを訪問

    した。彼は灰色の髭をして70歳をこえている。彼は枢機卿閣下に3枚の絵を

    示した。故ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼による、実物から描かれた

    あるフィレンツェの婦人の像、他は若い洗礼者ヨハネの像、三枚目は

    聖アンナの膝の上にいる聖母子の像で、それらはすべて完璧な出来具合

    である。一種の麻痺が右手を害しているので、彼に実際もはや良き作品を

    期待できない。しかしよく仕事のできるミラノ人の弟子を持っている。

    レオナルド氏は、彼独特の芳香さをもって描くことはできないが、まだなお

    デッサンをし他の人たちに教えることができる、、、

                                                     田中 英道 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」より

 

   レオナルドはこのとき65歳、、、

 

   右手の麻痺、、彼はそもそも左利きですから、たしかに油絵は少し難しいのかも

   しれませんが、、この文章の事実から、決定的に浮かび上がってくる事柄があります、

   それは、もう楽器が、リラ・ダ・ブラッチョが演奏できない、ということ、、

 

     ひとつ例をあげるなら、最初のミラノ時代に、友人でもあった数学者ルカ・

     パチオーリが彼の著作にレオナルドのことを書いていますが、

 

     もっとも威厳ある画家、遠近法、建築家、音楽家、すべての徳をそなえた

     学者   

 

   彼にとって、音楽はこころの中の大きな部分を占めていたとも言えなくはありません、

   そして、彼をとりまく、まわりの人々にとっても、、    

   しかし、この訪問時にはすでに、楽器を演奏することはできなくなっていました、

   この事実がレオナルドにとって、どのようなものであったでしょうか?

 

                 、、、、

 

 

       ということで、そろそろお時間、

       今日はこのへんで、、

 

 

 

           新たに加える参考文献として

 

           グラウト/バリスカ共著 新西洋音楽史 音楽の友社

           E・ガレン著 ルネサンス文化史 ある史的肖像 平凡社

          ピーター・バーグ イタリア・ルネサンスの文化と社会 岩波書店 

 

 

 

       


ミラノ 音楽家レオナルド・ダ・ヴィンチ

   こんばんは、

   まずは、フィレンツェの街のひとつの部屋から始めましょう、

 

         

          メディチ・リカルディ宮マギ礼拝堂

 

      小さな部屋の壁にフレスコ画が描かれています、

        ベノッツォ・ゴッツォリ(1421−97)作

        東方3賢王のベツレヘム(のイエス)へ向かう場面、、

         (1459−61)製作

      メディチ家の人々を中心に描かれていますが、その中に、、

 

  

                from ; wikipedia

                  描かれた人物、左下端、、

 

         

              from : wikipedia

      その右の人、、製作当時は10代半ば、

      ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ(1444-76)、

      後に父親の死をうけて、ミラノの僭主になる人物、、

      フィレンツェを何度か訪問しているようですが、

      

           

                 from : wikipedia

    こちら、 同人物、1471年頃の肖像、ポライウォーロ弟(1443−96)作

        フィレンツェ、ウフィッツィ美術館蔵

 

    ミラノ公になってからの肖像です、

    百合の紋章の上着、正妻がフランス王ルイ11世の妹であったため、

    そのフランス王家紋章でもあり、フィレンツェの紋章も百合であったため、、

    描かれたのは、当時彼が、表敬訪問していたフィレンツェにおいて、

    上のゴッツォリの作品をまねるように、数千の家臣団と共に訪れていた時と

    思われます、

    この人、音楽が大好きで、西欧一の音楽国をめざしていたようで、

    この時は、みずから40人ほどの音楽師を同伴していたといいます、

    そしてフィレンツェ側でその接待に当たった人物が、レオナルドの師匠の

    ヴェロッキョ、レオナルドも既にヴェロッキョの工房で活動していましたから、

    二人は顔を合わしていたとも思われます、

    師のヴェロッキョもレオナルドも音楽を得意としました、

 

 

    ここで、もう一枚肖像画を、、ポライウォーロ兄(1429−96)の製作、、

 

          

          このブログ再登場の、

        ルクレツィア・ランドリアーニ(1640−?)の肖像 

        1465年 ベルリン国立美術館 from : wikipedia

 

    上記ガレアッツォ・スフォルツァの愛妾です、

    彼女、ランドリアーニ伯爵の妻で、二人の子供を授かっていましたが、

    彼女に一目惚れした上記ガレアッツォに強引に妾にされてしまいます、、

 

 

    さて、そのガレアッツォ、父はルネサンスで最も幸運に恵まれた人とも言われる

    フランチェスコ・スフォルツァになりますが、その父親、ガレアッツの祖父に当たる

    人が、フランチェスコを世に送り出す時、3つのしてはならない

    行為を忠告していますが、

 

     1、他人の妻に触れるな、

     2、家来を打つな、もし打ったならその者を遠くへ去らせろ

     3、頑固な馬や、蹄鉄を落としたがる馬には乗るな

 

                        というもの、

 

     こうして明記されるということは、当時えてして行われていた

     ということになりますか、、

 

 

   

   そして、上のフィレンツェ訪問から5年後、とうとう事件が起こってしまいます、、

 

       

                             from : wikipedia

 

    木版画で刷られていますが、そのガレアッツォ、

    1476年12月26日にミラノ・聖ステファノ教会で暗殺されてしまいます、

    実は大変残忍な暴君でもあったようで、部下の何人かの貴族によって、

    命を奪われてしまいます、

 

                  、、、、

 

 

   さて、少しずつレオナルドに近づいてゆきますが、、

 

   このガレアッツォの死後、息子のジャンが幼くしてミラノ公を継ぎますが、

   実権はその執政となった、ガレアッツォの弟ルドヴィーコが握り、

   そしてやがて僭主の地位に、、

 

   そのルドヴィーコのもとに1482年フィレンツェからやってきたのがレオナルド、、

   ヴァザーリは書いています、、

 

     レオナルドは高い評判に囲まれながらミラーノ公のもとにやって来た。 

    公はリラの音を愛し、彼にそれを弾かせるために招いたのであった。

    その折レオナルドは自分の手で作った楽器を持って来たが、それは

    大部分が銀でつくられており、馬の頭蓋骨の形をした奇妙で新しい型の

    ものであった。しかしもっとも高い音でも調和がとれており、響きもよかった

    ので、彼はここに集い競い合ったあらゆる音楽師たちよりも優っていた。

    それに加えて、彼はまたもっとも秀れた吟遊詩人でもあった。

 

   彼を招いたとヴァザーリはレオナルドにとって良いように書いていますが、

   どうやらロレンツォ・メディチの指示でレオナルドは動いたようです、

   持参の銀製の楽器をルドヴィーコに献上するためとか、、

 

           

                  from ; pinterest

 

        復元された馬の頭蓋骨の形のリラ、正確にはリラ・ダ・ブラッチョ

        台座に弓が立てかけてありますが、、

        ブラッチョは腕の意、ビオラやヴァイオリンのように肩から腕にのせて

        弾きます、、

 

 

    レオナルドがいつ音楽の素養を身に付けたのか?

    ヴェロッキョの工房においてか、あるいはヴィンチ村の家族のもとでか?

    いずれにしても,彼は美声と演奏才能にめぐまれ、ミラノに同行した、音楽師

    アタランテ・ミリオロッティ(1466-1532)は彼の弟子だったとも、、

 

    ミラノ到着、「パラゴーネ」と呼ばれる音楽コンクールでは優勝したといいます、、

 

 

    レオナルドはその手稿(ヴァチカン・codice Urbinate)のなかに、、

 

      音楽は絵画の妹と称すべし---「音楽」は『絵画」の姉妹という以外に

      呼びようがない。たとえそれが眼に比べて第2次的な感覚たる聴覚に

     従事し、同時に作り出されて、調和に満ちた一瞬またはそれ以上の時間に

     生まれて死ぬることを余議なくされた比例的な部分部分の結合によって

     ハーモニーを構成しようとも、である。

     その時間がかかるハーモニーを構成する諸部分の比例を包括している

          こと、輪郭線が人間の美しさを生む諸肢体に作用するのと異ならない。

 

     だが「絵画」は「音楽」に勝りこれに君臨する。何故ならそれは、薄幸な

          「音楽」のように、生まれた直後に死にはしない、どころかむしろ存在し

          つづけて、実際単なる一片の平面にすぎないものに生命を吹きこんで

          君に見せるのだから。

          

    絵画を至上の芸術と考えていたレオナルドにとって、音楽もある意味無くては

    ならない存在であったようです、、

    当時、記譜するという行為はあまりなされていなかったようですが、それでも

    手稿に五線譜が見えます、

 

    

             from ; pinterest

 

    鏡面文字で書かれていますが、

 

      amore sol la mi fa remirare la sol mi fa solleita

         

         レソラミファレミ‥‥

           

      愛だけが私に思い出させる 愛だけが私をかきたてる

 

               と、読めるようです、、

 

               、、、、

 

    

     さてさて、とりとめもなく書いてしまいました、

     つづく、としておきましょうか、

     今日のところはこのへんで、、

 

 

        参考文献 以前からのものに加えて、

          ヴィンターニッツ 音楽家レオナルド・ダ・ヴィンチ 音楽の友社

          モンタネッリ ルネサンスの歴史 中公文庫

          高階秀爾 ルネサンス夜話 平凡社

 

          

         

      

 


もうひとりの近しい人‥

  こんばんは、

  まずは、一枚の作品から話を進めていきますが、

 

           

        ジャン・ジャコモ・カプロッティ(サライ)の肖像

         1502〜3年頃 個人蔵   wikipedia より

          サライ(1480〜1524) 20歳過ぎの頃のもの、

 

  このサライについて、ヴァザーリ(1511〜1574)が書いています、、

 

      またミラーノにいる間、弟子としてミラーノ出身のサライを雇ったが、

     上品さと優美さをかねそなえた愛らしい青年で、カールした美しい髪

     をしていた。

     レオナルドはとりわけ彼を愛した。そして彼に芸術上の多くのことを

     教えたが、ミラーノでサライの手になるといわれるいくつかの作品は、

     レオナルドによって筆が加えられている。

 

 

  レオナルド自身も何度も手稿に記録を残していますが、

  最初の記述が、パリにありまして、、(レオナルド38歳の時)

 

      1490年聖女マグダラのマリアの日(7月22日)ジャコモ来りて我と

     共に住む。10歳なり。

 

     泥棒。嘘付き。頑固。大食らい。

 

 

  このメモのあとに、彼の盗みぐせ等を何件も列挙しています、、

  しかし、レオナルドは彼を去らせるわけでもなく、その死まで生涯にわたって彼を

  傍らにおき続けます、

  1508年になっても、手稿にはこんな記述が、

    (この年、レオナルド56歳、サライ18歳)

 

     サライよ私はお前と仲直りしたい。もう絶対に戦争はいやだよ。

     だって私は降参しているのだから、、

 

 

  そして、死に際しての遺言状にも、

 

      同遺言人(レオナルド)は、ミラノ城壁外に所有する一庭園の半分

     すなわち小さい方をば、召使バッティスタ・デ・ヴィラニスに、同庭園の

     他の部分をば召使サライに爾今永久に贈与し譲渡する。

     この庭園には上記サライが家屋一軒を建築したが、この家も爾今永久に

     サライ、彼の嗣子後継者のものとする。

     これみなかれ(レイナルド)の召使デ・ヴィラニスおよびサライがかれに

     対して今までなせる善良にして手厚い奉公の報酬である、。

 

 

       この庭園はレオナルドが1499年にミラノ僭主ルドヴィコ・スフォルツァから

       贈られていたポルタ・ヴェルチェッリーナ外の葡萄園、

       その後レオナルドはフィレンツェ、ローマ、フランス等動き回っていますが、

       生涯手放さず持ち続けていました、、

     

 

  さて、そのサライ、、

  レオナルドが描いた彼の肖像といわれるものをすこし挙げてみますと、

 

              

                    from EONLINE 

            英、ウインザー城王立コレクション

 

        

               ウフィツィ美術館蔵、フィレンツェ 

 

             

                               from; leonardodavinci.net

               祝祭のための仮装 

                 ウインザー王立コレクション

 

        

                     from; wikipedia

              聖ヨハネ像 ルーブル美術館蔵

 

   このサライと男色関係にあったかどうかは置いておくとして、、

 

 

 

   当時のフィレンツェに関して、ある評者はこんなことを書いています、

 

      女性嫌悪、性的快楽の憎悪、そして同性愛への憧憬は、15世紀

      イタリア文化の基本的モチーフである

 

   この傾向を早い段階で危惧した1325年の政府の法令には、こんな条例が、

 

      少年と性的関係を犯し堕落したる者が発見された場合は、

      去勢の刑に処せられる

 

     しかし1365年にはいくつかの修正条項がくわえられ、罪を犯した者に火刑が

     宣告されています、、

     それでも実際にはこの件で有罪判決を受けた者は非常に少なく、1348年から

     1432年までの間で、56人、内死刑が44人、去勢が2人、残りは罰金刑、、

 

     そしてその1432年、人口減少を危惧した政府により再び法改正が行われ、

     夜間犯罪取締局が新設されてより日常的・効果的な検挙が目指されます、

     刑罰も罰金刑が主流になり、その分検挙者も増加します、

     結果、1432年から1502年までの告発者数は1万7千人、内、有罪者3千人

     という数字に、

     告発に関しては、タンブーロ(太鼓)と呼ばれる投書箱が置かれ、それに記載

     されると取調べが始まるというもの、、

 

 

    さて、この投書で、レオナルドは2度にわたって告発されます、、

    証拠不十分で有罪判決には至っていませんが、、

    彼がまず弟子入りしたヴェロッキョの工房にはこの風潮が蔓延していたとも

    いわれますし、兄弟子でもあったボッティチェリも告発されています、、

 

                  、、、、 

 

 

   ここで、話を戻して、そのサライ、

   レオナルドの人生においての最重要人物のひとりですが、

   彼に関して、1991年にミラノ国立古文書館で遺産目録が発見され、、

   その中には12点の絵画作品が記述されていましたが、そのうちに、

 

          レダと呼ばれる絵

          聖アンナいる絵

          ジョコンダと呼ばれる絵(モナリザ)

          大きな聖ヨハネのいる絵

 

       この4点の、現在ルーブルが所有している作品が列記されています、

       この3点になりますか、レダは消失していますから、、

 

            、、、、

 

    つづいて1999年フランスの研究者によって発表された論文に、

    1518年度のフランス王国の予算執行書のミラノ公国の欄に

 

       画家サライ・ディ・ピエトロ・ドレーノに対して、何点かの板絵を

       国王に献上した謝礼として、領収書を提出した場合にのみ、

       2604トゥール・リーブル、3スー、4ドゥニエ支払うこと

 

    という記載が、、、

    1518年、レオナルドの死の前年になります、

 

       さてさて、この両記述の重なりは??

       遺産目録の方は複製絵画になるのでしょうか?

       、、このブログでも何点か挙げましたが、

       もちろん正式な答えは出ていないようです、、

 

 

   こんな風にも登場してしまうサライですが、

   ここからがいよいよ本題になります、、

   先回からの引き続きの「最後の晩餐」

   小オの作品の製作時のレオナルドの年齢が43〜46歳

   サライは15〜18歳、

   二人の関係はミラノ宮廷でどのように受止められていたのでしょうか?

   普通の師匠・弟子あるいは召使の関係ではあり得ないようですが、

   

   それを踏まえて「最後の晩餐」をみると、

   イエスの左側のヨハネをイエスにもたれかかせるように描くと、

   サライとの関係をある意味吹聴するようにも受止められかねなくなります、、

   それをも考えて、あえて女性的なヨハネにしたのでは、、とも思ってしまいます、、

 

               、、、、

 

 

   最後にサライ本人に関してですが、レオナルドの死(1519年)後、

   ミラノにもどり、1523年結婚をしますが、

   翌年決闘で負った傷(銃痕?)がもとで死亡したといいます、(享年44歳)

 

               、、、、

 

 

     もうひとつ、サライについて書かなければならないような気もしていますが

 

         今日はこのへんで

 

          

   

          新たな参考文献

           チャールズ・ニコル「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯」白水社

           高橋友子「路地裏のルネサンス」中公新書

           ヴァザーリ「ルネサンス画人伝」白水社  

        

      


最後の晩餐 そのもっとも近しい者‥‥

  こんばんは、

  話しを続けます、まずは一冊の書物から

 

              

                    from The British Library

 

              

                    from Wikipedia

         ルーベンスが描いた上の書物の当初の所有者、

         イングランドのアランデル伯トマス・ハワード(1586-1646)

                    ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵

 

       彼がスペインで1630年代に手に入れたもので、

       モロッコ皮で装丁し自家の紋章を刻印しています、

       現在、大英図書館所蔵、

         中は、、

   

              from:The British Library arundel manscript 272r

 

              レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿(アランデル手稿)になっています、

 

   彼は、その膨大な手稿のなかで、プライベートな事柄にはほとんど触れていませんが、

   それでもいくらかの書き込みを残しています、

   上のアランデル手稿にも、右ページ上部にこんな言葉が、

 

     1504年7月9日、水曜日、7時。わが父、ボデスタ館公証人

     セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ死す、7時に。

     80歳なり、10男2女を残す

 

          ボデスタ館とは当時の司法庁舎、

          現在のバルジェッロ美術館

          上の写真で見ていただけるようにレオナルド本来の鏡面文字ではなく、

          普通の文字並びでそれも少し大きく書かれています、

          どうか読んでください、と言わんばかりに、、

 

 

   レオナルドは長男でしたが、母はセル・ピエロの妻ではありません、

   貧しい農家の娘で、それゆえレオナルドは庶子になります、

   彼が生まれたその年に、父はフィレンツェの名家の娘と結婚、、

   しかし彼女には子供が出来なかったので、彼は父やこの養母、祖父母、叔父

   とともにヴィンチ村で育ちます、

   生母は、彼を生んだ年に別の男と結婚、させられて?います、

 

   ですから、彼にとって母とはこの養母のこと、

   ふたりの関係は良好であったともいいますが、

   この義母、レオナルド12歳の時に不幸にも難産で死亡

   その後、父はすぐ後妻を娶りますが、(この時レオナルド13歳、母16歳)

   しかし、今度の養母も子を残さず死亡、

   直ちに3度目の結婚して、やっと嫡男(長子)が生まれますが、

   すでには父50歳、レオナルドは24歳、養母18歳という状況、、

   この養母も5人の子供を残して先に亡くなりますが、その後、またしても父は再婚、

   最後の子供が生まれたのは、セル・ピエロ死亡後というようなありさま、、  

                  、、、、

 

 

   さてそんな中での実母、、カテリーナという名前ですが、

   そのレオナルドの手稿の中に、カテリーナという記述が、計4回登場します、

   これらのカテリーナという人物が同一人物で実母であるかどうか異説はあるようですが

   どうやら、母親であろうということのようです、、

 

   そしてその最初に登場する記述、

   それはイタリア・ミラノ、アンブロジオ図書館所蔵の手稿

 

     

           from;Esperienziando Vitae

      アトランティコ手稿と呼ばれるもので、

      レオナルドの弟子であったミラノの小貴族のフランシスコ・メルツィが

      フランスでの師匠の死後、持ちかえったものですが、

      この中に、

 

       そちらではどのような暮らしぶりか私に言ってくれカトリーヌが‥‥したい

       かどうか私に言ってくれ、

 

              というもの、

             1480年頃のメモで、まだフィレンツェにレオナルドがいた頃のもの、

 

       

   2つ番目のものが、イギリス・ロンドンに

 

       

             © V&A Images/Victoria and Albert Museum

       ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館所蔵

       フォスター手稿と呼ばれるもので、ミラノで活動している頃のもの、

       この中に、

 

         7月16日

        カテリーナは1493年7月16日に来た

 

             とあります、、

     1493年、レオナルドは「岩窟の聖母」の製作を終え、

     翌年からの「最後の晩餐」を控えた時期、

 

 

   3つ目の記述が、パリ学士院図書館に、

 

         1494年1月29日

        カルツェのための布  4リラ3ソルド

        裏地  16ソルド

        仕立て代  8ソルド

        サライのために  3ソルド

        碧玉の指輪  13ソルド

        星石  11ソルド

        カテリーナのために  10ソルド

        カテリーナのために  10ソルド

 

      パリにある手稿は、どうやらナポレオンがイタリア遠征時に

      略奪して持ち帰ったもの、

      後に返還されたものが、上記ミラノのアンブロジア図書館蔵の手記

      になります、、

      1494年、この年から「最後の晩餐」の製作が始まります、

 

 

   そして、最後の4つ目のメモが、

   上記、ロンドンのフォスター手稿のなかに、、

 

           カテリーナの埋葬の費用

        蝋燭3リップラ(約900グラム)  27ソルド

        棺代  8ソルド

        棺の掛け布  12ソルド

        十字架の運搬および建立費  4ソルド

        遺体はこび人足代  8ソルド

        司祭4名および助祭4名へ  20ソルド

        鐘、本、スポンジ  2ソルド

        墓掘り人夫代  16ソルド

        長老へ  8ソルド

        公式許可書代  1ソルド

         計  106ソルド

 

        (それに先立つ費用)

        医師へ  5ソルド

        砂糖と蝋燭  12ソルド

         計123ソルド

 

     1493年にミラノにやって来たカテリーナですが、

     このメモが書かれたであろう1495年頃に、亡くなってしまいます、

     わずか2〜3年ほどの生活、、  

     カテリーナは60代半ば過ぎ、、

 

     さて、この123ソルドという金額、

     諸説あるようですが、

     当時のレオナルド工房の一日の食費が30〜40ソルドであったといいますから

     どう考えても、大した金額ではありません、

 

     それゆえこのカトリーヌを母ではなくただの家政婦と考える説もあるようですが、

     ミラノ宮廷で華々しく活躍していたレオナルド、

     もしこの農家の老女をおおやけに母として迎え入れていたなら、

     彼女にも当然母としての公的な役目がいくらかなりとも生まれてしまいます、

     二人の間には、その関係を秘密として、生活するという了解があったのでは、、

 

     それゆえのこの葬儀費用、、

 

 

     そして、もうひとつ付け加えれば、

     上記のメモの中の、繰り返しのことば、

     レオナルドは、ほとんど繰り返しのことば使いを、メモではしないと言いますが

 

       まず、父の死亡時に、7時、という言葉を2回、

       カテリーナ画やって来たときに、7月16日、を2回

       そして、そのカテリーナのために、10ソルド、と2回、、

 

       暗号のように、繰り返しています、、

 

               、、、、

 

 

   さてさて、いよいよ「もっとも近しい者の間の最も離れた距離」に

   近づいてゆきますが、

   

   

 

   カテリーナが亡くなったのが、1495・6年

   この作品の製作中です、、

   

   いま触れてきたことを思いながらこの作品を見ると、

   イエスがレオナルドに見え、その最も近しいと言われたヨハネが

   カテリーナに見えてきます、

   カテリーナを実母であると告白した時の、弟子やまわりの人たちの反応、、

 

   、、先回のブログで触れましたように、ヨハネは聖母とも似ていますし、、

 

       これは、あくまでも、雑談の域ですが、、

 

                、、、、

 

 

        もっとも近しい者の間の、もっとも離れた距離、、

 

                 、、、、

 

 

        実はもうひとつ、この言葉から考えられることがあります、、、

 

 

 

          さてさて、相変わらず、更新がとどこおっています、、

 

          今日のところはこのへんで、

 

 

 

          そうそう、参考文献、

          先々回からのものに含めて

 

              斉藤泰弘 レオナルド・ダ・ヴィンチの謎 岩波書店

              ドラッツィオ レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 河出書房新社

              セルジュ・ブランリ レオナルド・ダ・ヴィンチ 平凡社 

                         他

 

 


最後の晩餐 試論

   こんばんは、

   話を続けなければと思っております、まずは一枚のフレスコ画から

   

                                            from Olga's Gallery

 

      カスターニョの最後の晩餐  聖アポローニア修道院 フィレンツェ 1447年

     

                     from; Art in Tuscany

          

          左から、おそらくペテロ、ユダ、イエス、ヨハネ

          この作品でも、ユダは一人テーブルのこちら側に座っています、

 

   そもそも、「最後の晩餐」 ご存知のように4福音書それぞれに記者によって

   記述が異なっていまして、先回はマタイ福音書を引用しましたが、

   マルコ福音書では、

 

     「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと

     一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」 弟子たちは

     心配して、ひとりひとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。

     イエスは言われた、「12人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢に

     パンをひたしている者が、それである、、

                          14.18

 

   ルカでは

 

     「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。人の子は

     定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るそのひとは、わざわい

     である。」弟子たちは、自分たちのうちだれが、そんなことをしようとしている

     のだろうと、互いに論じはじめた。

                           22.21

 

   そして、ヨハネ

 

     「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを

     裏切ろうとしている」。弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、

     互いに顔を見合わせた。弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が

     み胸に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、

     「だれのことをおっしゃったのか、しらせてくれ」。その弟子はそのままイエスの

     胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、イエスは答えられた

     「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれ

     の食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。

     この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。「しようとして

     いることを、今すぐするがよい」。席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう

     言われたのか、わかっていた者はひとりもいなかった。

                                                             13.21   

 

 

   レオナルドの作品には、上のヨハネ福音書のペテロのコメントも反映されています、

   

   ここで再び弟子たちの配置に話をもどしますが、

   イエスのまわりの弟子たちの順番は、

 

       ペテロ、ユダ、ヨハネ、、イエス、、大ヤコブ、、

       (トマス、ピリポの着座位置ははっきりしません、)

       頭部の見える位置とはズレがあります、

 

         

 

       イエスにとって本来の重要な弟子といわれる面々を挙げますと、、

 

           ペテロ、大ヤコブ、ヨハネ

 

       一般にこの3名になります、

          イエスはこの3名の前で”変容”して、神の姿をみせ、

          またこの最後の晩餐のあと、この3人を連れだって祈りをあげます、

            

                                             from  Art & Critique 

       イエスの向かって右隣に座る大ヤコブ

       (あの巡礼地サンチャゴ・コンポステーラに眠っているとされる人物)

       彼はイエスの方へ近づこうとするトマス、ピリポを両手で阻んでいます、

       おそらく?自分は裏切り者でないと確信できるがゆえに裏切り者を含む

       他の弟子からイエスを守ろうという行為でしょうか?

       そして、イエスの手の動きを注視しています、、

       

 

       しかし、如何せんトマスのほうがイエスに近づいてしまいました、、

                      、、、、

 

   さて、ここでもう一枚再登場でもある作品を、

        

        レオナルド 岩窟の聖母 ルーブル美術館蔵 1483-86

 

         この作品のマリア

 

          

 

     ヨハネの姿によく似ています、、

     ダ・ヴィンチ・コードでマグダラのマリアにされたのも無理もありません、

     普通に見るなら女人、

     しかし、この当時、性を変換して描くこともよくあったともいいます、

     

 

     そして、ふたりの体の姿勢も他の人物たちとは異なって正面向きに

     服装も同じように描かれています、、

     手のかたちはイエスは両手を広げ、ヨハネは前で組んでいます、

     夫婦の姿とも見えてしまいます、、

 

 

  しかし、このもっとも近しいと言われる二人の間の、もっとも大きな隔たり、、

  そう見ると、イエスの孤独がより鮮明になります、、

  

       彼は翌日処刑されるわけですから、

 

 

  そしてその二人の間の窓と入口?から垣間見えるのどかなロンバルディア風景

  レオナルドが描いた風景のなかで最も穏やかな自然です、、

  イエスの孤独・苦しみの後に控える安らぎのような、、

 

                      、、、、

                     

 

   さらに、描かれた画面についてすこし付け加えるなら、

     イエスの両サイドに着座している大ヤコブとヨハネは兄弟

   

     イエスを境としての左右のシンメトリーについては、

                    

       老人がそれぞれの側に2人ずつ、

       髪の毛が肩までかかった人物も2人ずつ、

       ひげをたくわえているのは、4人ずつ計8人

       

       向かって右側の6人は、中央にかたまるように山形の団体として描かれ、

       左側の人物たちは、それぞれ左右に分散して動こうとしています、、

     

 

                      、、、、

 

 

   さてさて、そろそろ本題に入らなくてはと思っているのですが、

   その本題 ”もっとも近しい者の間のもっとも遠い距離”

 

 

       つづく としまして、

       今日はこのへんで、

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最後の晩餐 ダ・ヴィンチのメッセージ

  こんばんは、

  久しぶりの更新になります、

  このところ、すこし頭に引っかかっていることを、書いてみます、

 

  まずは、一枚の地図から、、、1499年頃のイタリアです、

     

 

   中央部大きく見えるFirenze (フィレンツェ共和国)、その横にUrbino(ウルビーノ公国)

   その下部には大きくローマ教皇領、

   このウルビーノ公国、そもそもは教皇領でありましたが、1443年に教皇の許可により

   独立、以後200年にわたって存続しますが、最後の領主に後継ぎが無かったため、

   1631年、再び教皇領に戻ります。

   しかしその200年の間ウルビーノ宮廷はルネサンス文化の一つの中心として栄えます。

 

   さて、その滅亡時、宮廷に残された遺産のうち、公国の記録文書、高価な家具

   調度品、宝飾品、そして名画の数々は、唯一に遺産相続人であり、フィレンツェの

   大公に嫁いでいた姪ヴィットーリアに相続され、豪華な写本や書籍の数々は

   ヴァチカン図書館に運ばれます。

 

     公国の最初の領主、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロは書籍収集のため

     常に30〜40人の写本家を各地に派遣していたといいます、、

 

   そのなかに、今日の本題に近づくためのレオナルド・ダ・ヴィンチの文章が

   含まれていました、、

   彼の絵画論です。   

      

     「画家は、自分を魅惑する美を見たいと思えば、それを生みだす主となり、また、

     肝をつぶすほどの奇々怪々なものであれ、ふざけて噴き出したいような者、

     実際可愛そうなものであれ、何でも見ようとおもえば、その主となり神となる。

     またもし、さまざまな土地や沙漠、暑い日には陰深く小暗い木立を生み

     出したいとおもえば、かれはそれを描く。

     もし渓谷が入用なら、もし山々の高嶺から広野を見はらしたいなら、またもし

     その彼方に平らな海面をみたいなら、かれはその主である。もし低い谷から

     高山を仰ぎ、あるいは高い山から低い谷や傾斜面を俯瞰したいというなら、

     [それも同様だ]。実際この宇宙のなかに本質として、現在としてあるいは

     想像としてあるものを、かれはまず脳裏に、次には手のなかに所有する。

     そしてそれは非常に優秀なので、それらがいかなるものであろうとも、同時に

     一眸の中に均衡のとれた調和を生じる。

              「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上」 岩波文庫

 

          この記述たとえば以前に触れた「モナリザ」の背景等にもそのまま

          当てはまります、、、

          今回は「最後の晩餐」を見てゆきますが、

 

        

                                         

  

  まずは、その本題に入るまえに「最後の晩餐」という史実?について

  すこし見ておきましょう、

 

  「新約聖書」福音書4つにその記述が残っていますが、

  最も成立が古いとされる「マタイ福音書」から

 

    「さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、

    「過ぎ越しの食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」

    イエスは言われた、「市内(エルサレム)にはいり、かねて話してある人の所に

    行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと

    一緒に過ぎ越しを守ろうと、言っておられます』。弟子たちはイエスが命じられた

    とおりにして、過ぎ越しの用意をした。

    夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。そして一同が

    食事をしているときに言われた。「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの

    うちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちは非常に心配して、

    つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではではないでしょう」と言いだした。

    イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、

    わたしを裏切ろうとしている。たしかに人の子は、自分について書いてある通りに

    去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は

    生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。イエスを裏切ったユダが

    答えて言った。「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、

    「いや、あなただ」。

    一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに

    与えて言われた、「取って食べよこれはわたしのからだである」。また杯を取り、

    感謝して彼らに与えて言われた、「みなこの杯から飲め、これは、罪の許しを

    得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。     

 

 

  たとえば、レオナルドより15年ほど前に、フィレンツェで描かれたもの、

 

    

                         from "Art and The Bible"

                                 ギルランダイオ 「最後の晩餐」 サンマルコ美術館

 

     裏切り者ユダはテーブルのこちら側に、使徒たちにも大きな動きはありません、

     ダ・ヴィンチの作品は画面の設定をキリストが裏切り者がいると言った瞬間に

     絞っています。

 

    

 

     各人それぞれに異なった様々な動き、3人づつ4つのグループに分かれ

     波打つように描かれています、、

     イエスその人だけが中央にひとり使徒たちから離れるように孤独に座る姿、

 

     このひとりひとりには、もちろん人物設定されていて、画面左から

 

                   バルトロマイ

                   小ヤコブ

                   アンデレ

                   ユダ(裏切り者)

                   ペテロ

                   ヨハネ

 

                   イエス

 

                   トマス

                   大ヤコブ

                   ピリポ

                   マタイ

                   タダイ 

                   シモン

 

             ひとつ付け加えるなら、

             これだけ各人が重なるように接近して描かれているにもかかわらず、

             ひとりひとりの手は、すべて違うかたちで隠れることなく、

             見えていること、、、

 

             

             さて、ここでひとつの疑問が、、

             使徒たちは何故この順番で描かれたのか?

             レオナルドは神のようにどういう順番でも描けたわけですから、、

 

     

             ここで全体像を見ていただきますが、

 

     

                              from "Ilumunelnforme.it"

                               ミラノ、サンタ・マリア・デル・グラーチェ教会

 

   イエスたちが食事している部屋とこちら側の間に、たれ壁が描かれ、

   そこにアーチで囲われた3つのエンブレムがみえます、

   中央の大きなものが、ミラノの領主ダ・ヴィンチのパトロンである、

   ルドヴィコ・スフォルツァのもの、向かって右が跡取の長男マッスりミリアーノのも、

   左は二男フランチェスコのものといいます、、

   序列は向かって右から始まっています、、

 

 

   ここで、もうひとつ、レオナルドの手記を引用しましょう、

   こちらは現在、フランス学士院図書館?に保管されている直筆のメモから、

   (こちらはレオナルド晩年の死まで彼自身が手元に持っていたため、

    フランス王家の所有になったものでしょうか?

 

 

     「その理論が経験によって確証されないあの思索家たちの教訓をさけよ。

 

     「しかし私は、もっと先に進む前にまず何かの実験を行おう。なぜなら私の意図は

     まず実験を挙げてしかる後になぜかかる実験がかかるふうに作用せざるを得ない

     かを、理論によって証明するにある。そしてこれこそ自然の諸現象の思索者たちが

     よってもって進むべき正しい法則である。自然そのものは理論に始まって経験に

     終わるにしろ、われわれにとっては逆に追求することが必要である。すなわち、

     上で言ったように、実験から開始して、それによって理論を検証することが。

             ダ・ヴィンチの手記 下  科学論 岩波書店

     

 

   「最後の晩餐」の弟子たち、、イエスに一番近い序列として描かれているのは

   上記の息子たちのエンブレムの配置からもうかがえる様に、

   他でもありません、何度もこのブログに登場している聖トマス、、 

      「懐疑のトマス」とも呼ばれる人、

 

      イエスが復活し、弟子たちの前にあらわれた時、その場に居合わせなかった

      トマスは、

      「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、

      わたしの指をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」

      と、イエスの復活を信じようとしません、 

      そのためイエスはトマスの前に姿を現し、傷跡に指をさし入れることを

      勧めます、そして、

      「信じない者ににならないで、信じる者になりなさい」と言い、

      「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、

      さいわいである」と言い足します、、

                  ヨハネ福音書20章

     

      この記述は宗教のある本質を言い得ていますが、

      レオナルドの上記の手記とは、相反する言説です、、

      見方によれば、弟子たちの筆頭にトマスを持ってきたレオナルドは

      彼自身の信念をここで表現しているともとれます、、

 

 

      たとえば、上のギルランダイオの「晩餐」では、

      向かって右に、イエスが最も愛した弟子ともいわれるヨハネ、

      左には一般的に「第一の弟子」と呼ばれるペテロ、

      初代ローマ教皇といわれるペテロを描いていますが、、

 

             

 

 

        

     

 

           

 

      レオナルドのペテロはギルランダイオと同じくパン切ナイフを手にしていますが、

   ある悪意のような雰囲気をにじませています。なおかつ体の動きとして、

   手首の曲げられた様子があり得ないように描かれています、

 

      ペテロは元来気が短く攻撃的な面も持っていたようですが、

      あまりにあからさまに描いているような、、

      ローマでこの作品を描いていれば、教皇庁から攻撃されそうな、、

      序列に関しても、イエスから離れています、

                   、、、、

   

 

 

    さてさて、すこし長くなってしまいました、

    まだまだ、書かなくてはならないこともあるのでしょうが、

 

    今日は、このへんで、、

 

 

         そうそう、参考文献を挙げるのを忘れていました、

 

           ブルクハルト 「イタリア・ルネサンスの文化」 中央公論社

           ケネス・クラーク 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」 法政大学出版局

           フランチェスコ・ルイ・ロンバルディ 「ウルビーノ大公国の歴史 

                                            1431-1631年」

           下村寅太郎 「ルネッサンス的人間像」 岩波新書

           片桐頼継 「ダ・ヴィンチという神話」 角川書店

           アメリア・アレナス 「よみがえる最後の晩餐」 日本放送出版協会

           J・ワッサーマン 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」 美術出版社

                                 他

           

 

    

 


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