パリのオルガン

 こんばんは。
話は、まだ続いてゆきます、

パリで2番目に大きなオルガンは、
あのシテ島にあるノートルダム大聖堂のもので、こちらはパイプの数が7800本とか、

        
          向こうに、すでに登場したステンドグラスの薔薇窓が見えます。

         

  その次にサンシュルピス教会が登場するわけですが、こちらは7500本のパイプ
  
      

       
            鍵盤も5段で、ひとりでは演奏しきれないとか‥‥



さて、その鍵盤の話ですが、
先回、水オルガンの絵で、パイプの前に付いているのが鍵盤と書いてしまいましたが、
どうやらそれは誤りらしく‥‥

   オルガンの中でも巨人級のものが、980年、ウインチェスターで報告されている。
   これには約400本のパイプがあったが、鍵盤はまだ無かった。
   鍵盤はやっと12世紀になって始められたものである。
 
   初期の鍵盤はキーの幅が8〜13センチまたはそれ以上、
   厚みが5センチ、長さが45センチから90センチ、
   キーの沈みは時として25センチになることもあったという。

   アクションは当然重くなり、
   特に木が膨張する雨の日などは大変で、
   演奏者はこぶしやひじを使わなければならなかった。


もちろん、オルガンに風をおくるふいごも巨大化の道を進み、
こちらの作業もどんどん重労働になっていって、
演奏中に堪えられなくなって、作業放棄、
音が途絶えてしまうことも、あったとか‥‥


16・7・8世紀頃、パリの教会のオルガン奏者の地位は、各教会,同じ家族によって、
引き継がれていたようで、

   以前一度登場した、クープラン家  サン・ジェルヴェ教会

             
                 セーヌ川右岸で最も由緒ある教会
                ノートルダム大聖堂より700mも離れていません。

   サン・セヴラン教会は、フォルクレ家 
               こちらも、ノートルダムより400mほど

             

           
                天井も美しく‥‥

   ダンドリュー家は、サン・バルテルミー教会、
   先回のサン・トゥスタシュ教会は、フーケ家
   そして、サン・シュルピス教会は、クレランボ^−家

             

             ルイ・ニコラ・クレランボー(1676−1749)
                チェンバロ曲を集めたCDです。

          
             夜も更けてまいりました。
             今日はこのへんで。







パリ最大のパイプ・オルガンとアレクサンドリア

 こんばんは。
さて、さて、最後のサン・シュルピス教会、となりますか‥‥


まずは、ある文章の引用からはじめましょう。

   私は、はじめ信仰の中に引き入れられた頃、あなたの教会で聞く聖歌に涙した
   のである。そして今もなお、人々がそれを歌うとき、心動かされるのだ。
   それゆえ、歌うということが、やはり大きな効用を有するのを、認めるのである。
  
   このように私は、一方では快楽におちいる危険を恐れたり、
   また他方では、健全な効用があるものだと、経験したりして、
   あちらこちらと迷っている。
   しかしながら、決定的な意見を述べるわけではないが、教会で高らかに歌う
   という習慣を、正しく認めたいと思う。
  
   このように歌うことによって、耳を楽しませながら、弱い心の持ち主にも、
   敬虔の念をわき立たせることが出来るだろうからだ。

   けれども、人々が聖歌を歌っているのを聞いて、その内容によってではなく、
   むしろその美しい声によって心を動かされるようなことがあるのだが、
   この場合には、私は罪を犯したのだから、罰せられるべきだと告白する。
   そして、そんな時、私は歌を聴かなければよかったと思うのである。


少し長くなってしまいましたが、
紀元400年に書かれた、アウグスチヌスの「告白」です。
30代半ばでキリスト教に改宗していますが、
その微妙な心の動きを綴っています。

               
                      これは水オルガンです。

さて今日の本題、オルガン(パイプオルガン)に入ってゆきますが、
このオルガンに関しても、上のアウグスチヌスの歌に関する記述に重複する部分があります。
現在キリスト教教会のほとんどに設置されているオルガンですが、
当初は快感を与えるもの、すなわち、反宗教的なもの、という考え方によって、
キリスト教徒の人たちによって破壊されるといういきさつもあったようです。

そもそも、この楽器、どうやら、アウグスチヌスと同じアフリカ生まれ。
アウグスチヌスはアルジェリア生まれですが、
この楽器は、何度でも登場してしまう、アレクサンドリアで生まれたようで、
紀元前3世紀、初代アレクサンドリア・ムセイオンの学長でもあったクテシビオスという人
の発明に帰されています。
当初は、上に図を持ってきましたが、水の力で空気を動かし(ポンプ)、笛を
鳴らすという水オルガンが出発点です。
最初は鍵盤も無かったようですが、上の絵ではすでにパイプの下に鍵盤が見えます。
(ただし、紀元前1世紀ころから、ふいごによるオルガンが現れています。)


たとえば、このオルガンについて、
ローマ皇帝ユリアヌス(331-363)自身も文書を残していて、
  (キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世の甥で、叔父がしたキリスト教徒への
   優遇を破棄し、そのためキリスト教徒側からは「背教者」とよばれ、
   若くして、ティグリス河畔でペルシャ人の槍に倒れた人)
  
      異なった種類の管
      牡牛の皮で作った風袋から噴出する風
      管につながるてこを操作しての発音
      しぼり出されたえもいわれぬ音

   ギリシャ・ローマ時代には、主に競技場や宴会場で用いられていたとか、

   
ですから、この楽器、現在のように、ほんとうにキリスト教と結びつくには、
かなりな時間がかかってしまいます。
7世紀になって、やっと、時の第76代ローマ教皇ウィタリアヌスによって、
典礼規定によるオルガンの使用が定められます。
600年以上かかった計算になりますか‥‥



さて、サンシュルピスに戻るべく、現代のパリに再び帰りますが、
市当局によって現在維持管理されているオルガンが、
130台ほどあるようで、毎年何千万円かの予算がそれに割り当てられているようです。
そして、そのパリ最大のパイプオルガンが
サン・トゥスタシュ教会にあるもので、なんとパイプの数が8000本

            

          
             100年ほどかけて1637年竣工しています。


     残念ながら、サンシュルピスまでは辿り着けませんでした。
        迫り来る時間‥‥

       今日はこのへんで。
    


聖人たち、サン・シュルピス

 こんばんは。
話は、続いてしまいました。


先回のサンシュルピス教会 礼拝堂等の内訳を‥‥
まず、左列、キリストの父ヨセフの次が

   聖カロロ・ボロメオ (St charles) 1538−84 
    ミラノ大司教、貧民救済やペスト治療に挺身

   聖ヨハネ(St Jean)  キリスト12使徒のひとり、ヨハネ福音書作者
         ダヴィンチ「最後の晩餐」キリスト左に描かれた人物
     
   結婚用聖具室(Sacristie des mariages)

      聖心(Sacre Coeur)
          イエス・キリストの礼拝堂

   聖ヴィンセント・ポール(St Vincent dePaul)1581-1660
          パリで貧民救済に務めた人

   聖フランソワ・ド・サール(St Francois de Salle)1567-1622
          スイス・ジュネーブ司教 
     ジュネーブがカルヴァン派新教の拠点であったためフランス国境の町アヌシー
     滞在を余儀なくされながらも、説教・著述活動を行い、多くの人を導いています。

   そして最後の部屋が
   聖フランシスコ・ザビエル(St Francois Xavier)1506-1552
          久方ぶりの再登場、
     そもそもイエズス会発生の地、ここパリ、彼の人気のほどが思われます。
          建立当時も、カトリック教会にとっては「星」のように仰ぎ見る人‥‥


さて、次は右列です。
聖ドニのあと、

   ミサ用聖具室(Sacristie des messes)

      洗礼者ヨハネ(St Jean Baptisto)
         イエスに洗礼をほどこした人、

   聖モーリス(St maurice)3世紀
    アフリカ・テーベで徴収された軍団の長、クリスチャンであったため、
    多くの軍団兵とともに、スイスにて処刑される
    (エジプトは早くからキリスト教が浸透していたようです)

   聖ジャン・バプチスト・ド・ラ・サール(St J.B.de la Salle)1651-1719
    カトリック司祭、近代教育の創始者とも言われる
    青少年教育を目的とするラ・サール修道会設立するも、
    不遇のうちに死去。
    
   煉獄にある霊魂のための礼拝堂(Ames du Purgatoire)
       
      そして最後の部屋が聖天使礼拝堂


以上がこの教会のメンバー等々です。
さて、少し横道にそれますが、

            

こちらは、サン・シュルピスから400mも離れていない、サン・ジェルマン・デ・プレ教会内部
を書いたチラシです。

   この教会にもフランシスコ・ザビエルの聖室があります。
   こちらも左手最後?の部屋、18の番号(見えますか?)

   この教会の聖人たちは、教会自体が古いこともあって、
   オーソドックスな人たちが並んでいます。

   一番奥はもちろん聖母マリア、
   右横が聖ジュヌヴィエーブ、その横が聖アンナ
    (サン・シュルピスとは並びが逆です。)
   左手が教会名の聖ジェルマン(6世紀、パリ司祭)
   その次が、聖心(イエス・キリスト礼拝堂)
   その下、同室にペテロとパウロ
   そして、聖ヨハネ‥‥
   
   最後がザビエルです。



さて、さて、時間が迫っています。
どうでも良いことの極を書いてしまいました。

今日はこのへんで。

    
     
     
     

   

    

礼拝順位について

こんばんは。
それでも、話を続けてゆきます。

サン・シュルピス教会、
先回「聖天使礼拝堂」に触れましたが、
この教会のプランを見てみると、たくさんの礼拝堂等が見えます。

    

先回の聖天使礼拝堂は向かって右一番下、(Sts Anges)
どうやら、ですから先日の文章は誤りであったようで、西正面入って南側一番目が
ドラクロアの礼拝堂になります。

こうして、プランを見てゆくと、うまく読み取れない文字もあって、
正確な全体像は見えないのですが、
それでも、一番奥まった上の部分の、聖母マリアの礼拝堂は、当然のこととして、
なんとその左に、聖王ルイ、セント・ルイス(2011.8.1)があるというのが、驚きで、
その下に、イエスの父、ヨセフ、

右側に関しては、まず一番にマリアの母、アンナ
そして、次は何度か登場しているパリの守護聖人ジュヌヴィエーブ(2010.8.14)、
フランスに最初に修道院を作った聖マルタン、
そして、その下に、これもすでに登場した聖ドニ‥‥


あのローマ・カトリックを代表する12使徒の代表、初代教皇ペテロはどうやら見当たらず、
フランス色がかなり濃厚になっています。
  自分達にとって身近な聖人たちを持ってきているといいますか。



そう、中央部少し斜めになって引いてある線が子午線です。

   
                   こんな映像もありました。

         

               正面聖母マリア礼拝堂に向いての写真です。

      

                     天井 穹窿も美しい

        建造は新しく、1646年からちょうど100年かけて建てられました。


      時間が迫ってきました(何の?)
     もう少し、礼拝堂の各主人公たちを見てゆけば、
     様々な事柄が明らかになってゆくのでしょうが‥‥

      たとえば、パリ最大の、ノートルダムと比較するなりして‥‥


      時間が迫ってきました、
      今日はこのへんで。

    


ドラクロワ、一枚の絵によせて

 こんばんは。
話を続けます。

サン・シュルピス教会

この教会の西側正面の入口をはいってすぐの北側に、
ひとつの礼拝堂が造られているようで、
シャペル・デ・サン・ザンジュ、聖天使礼拝堂と名づけられています。
天使に祈るための礼拝堂、
ここに、ドラクロワ(1798-1863)が晩年(1856-1861)に描いた壁画が3枚あります。


のっけから、少し余談になりますが、
はたして、生涯に私達は何枚の絵を見るのでしょう?
このブログにも、いったい今まで何枚の絵を紹介してきたのでしょう?
そして、私自身過去幾枚の絵を目にしてきたのでしょう?

もちろんその中には、一度網膜に触れたきり、二度と頭の中に浮上してこないものから、
たとえば月に一度は必ずといっていいほど登場してしまう作品まで、様々ですが、
今日の一枚、この絵と向き合うと‥‥

       

          ドラクロワ サン・シュルピス教会壁画 ヤコブと天使の戦い
                      715×415cm

作者ドラクロワ自身が、この絵を解説していますが、

   ヤコブは、羊の群れと他の贈り物を引き具して、それで兄弟エサウの怒りを
   鎮めようと思っている。
   すると一人の見知らぬ男が現れ、彼の行く手をさえぎると、執拗な闘いを挑んでくる。
   その闘いは、相手に腿の神経を触られたヤコブが、無力になるまで終わらない。
   聖書によると、神がときおり選び給いし者につかわされる試練のしるしと
   みなされている。


彼ヤコブの従者たちが右端に何人かみえますが、
主題は、ヤコブの孤独な闘い、
迫ってくるような大きさの二本の樫の樹を背景に、
そして、その向こうは深い谷の間から、光が射しています。


ひとり、ロマン派芸術を切り開いてきた画家の
この絵をひとつの遺書とみる批評もありますが‥‥

   二人の前面には、脱ぎ置かれたヤコブの美しい衣服や持ち物、
   そして彼自身は半身裸体の状態。
   つまり、作品創作という行為とは、
   当時すでに確固としてドラクロア自身が得ていた地位・名声というものとは
   関係なく、苦しい孤独な闘いを続けなければならないという‥‥



そう、折角ですから、蛇足になってしまいそうですが、残りの2枚も挙げてみましょう。
まずは天井画、何度も登場している聖ミカエル、サン・ミッシェルです。

     

そして右壁面は 神殿を追われるヘリオドロス

      

エルサレム神殿から財宝を奪おうとしたシリアの宰相ヘリオドロスが
不意に現れた謎の騎士に転倒させられ、同時に出現した天からの二人の使者に
鞭打たれるというものです。


すなわち、この礼拝堂、
左の絵(ヤコブ)は、天から与えられる孤独な試練を、
一方、右の絵(ヘリオドロス)には、天からの助力、
そしてそれを天上から見つめる、ミカエルという構図になります。



夜も更けてきました。 サン・シュルピス教会の一面でした。

今日はこのへんで。











鐘について

 こんばんは。

少し遡って、話を繋げてゆきましょう。
まずは、一枚の写真から

      

セルヴァンドーニがファサードデザインしたサンシュルピス教会の鐘です。
未使用のもののようで、大きさも様々ですが。

この教会のことを気にしているうち、
ある文章を思い出しました。
それはこの教会の側面の壁に開いた入口に「鐘楼縦覧御随意」という文字を見つけ
そこへ上ってゆくというもので、
そこで鐘撞き人と出会い‥‥


  鐘は他のものとは異なり、人間と同じように洗礼を受け、
  聖油を塗られて神聖なものとされています。
  教会式定書の式目によると、鐘の内側も司教から、聖礼を受けることになっていて、
  聖油を七たび、十字架の形に塗るようです。
  そうして鐘は、人々に慰安の声を送って、苦しみに耐えさせる任務を負わされています。

  しかし、そればかりではなく、
  鐘はローマ教会の軍師でもあります。
  司祭を内部の声と見るなら、鐘は外部の声です。


  鐘の中には、「われ怒れるものの心をやわらぐ」という銘を持っているものもあり、
  鎮静剤の役をすることもあります。


  ローマ教会のほんとうの音楽は鐘の調べです。


こんな言葉が交わされます。
そして、この鐘撞きの部屋を訪れ、

  ジェローム・マディウス 「小鐘について」
  ドン・レミ・カレ 「ローマ教会の鐘に関する啓蒙的珍話集」
  ジャン・バチスト・チエール 「鐘の解義」
  アンジェロ・ロッカ 「鐘の注解」
  「鐘の表徴に関する研究」
       等々の本を見つけ‥‥


この文章が書かれたのが1891年、
現在でもこの教会の鐘楼に登ってゆけるのかどうか分かりませんが、

ただ教会の鐘の音を集めたCDは様々あるようで、

              

                 興味のおありの方はどうぞ

       サンシュルピス教会の一面でした。
          そうそう、この文章は、

             

    ユイスマンス(1848 - 1907)というフランス人の「彼方」という作品からです。
           翻訳も出ています。


          今日はこのへんで。


陰謀の花火? ロンドン グリーンパーク 

 こんばんは。
少し続けてみましょう。

花火にとって、欠くことの出来ないものが、黒色火薬
その内訳は、硝石(硝酸カリウム)75%、硫黄15%、それに木炭10%
硝石は主に、中国内陸部、南ヨーロッパ、西アジアの乾燥地帯で採取されます。

        
          こちらは、どうやらウクライナ産の白色硝石

ですから、そもそもの火薬発明は中国ということのようです。
花火もこの中国で12世紀半ば?頃から出てきたようです。

ヨーロッパに入ったのは、14世紀後半、
まず、イタリア フィレンツェの名前があがるようです。
ですから、先回のこの街で生まれた セルヴァンドーニが登場するのは、
納得のゆくことでもあるのですが‥‥

さて、引き続きのグリーンパーク大花火大会
セルヴァンドーニ作の書割の図面をあげていましたが、
その大きさを調べてみると、
なんと、高さ35m 幅125mと結構大きく造られたようで、
約半年がかりで、準備されていったようです。

   

当時、世界に冠たる大英帝国、
花火の仕掛け作業は軍需省が受け持ち、監督は王室砲術長、
点火・導火を王室花火研究所長が管理するというもの、
そして、花火のデザインと照明効果等々は世界第一級のセルヴァンドーニ、
おまけに音楽は、ヘンデルという、いうなれば申し分の無い組み合わせ。

このために用意された花火もロケット類だけでも10650発という、ずば抜けた量‥‥

会場には、各地の領主や大公、ヨーロッパ各国からの大使や使節団
そして国王ジョージ2世の着席で始まったわけですが‥‥

残っている記述によると、どうやら導火線の選択ミスで、
導火スピードが速くなりすぎたために、火災を誘発してしまったとか、
セルヴァンドーニデザインの殿堂に火が廻り大火災が発生、
見物人は大パニックに陥り、
来賓者は早々に引きあげるという顛末。
大半の花火は未使用のまま終わったということのようです。


花火の常識からすると、ありえない失敗と言われています。

   ひょっとすると、何物かの陰謀だったりして??

   
   今日はこのへんで。












花火 パリ・ロンドン

 こんばんは。
以下、年を越してしまったブログ記述です。


この文章が、今年最後のブログになるのでしょうか?
それとも、完成しないままに年が明けてしまうのでしょうか?

少し困難な題材を抱えてしまいました。
つまり、ほとんど資料の無い人物、
先々回からの流れで、フィレンツェ生まれの
ジョセッペ・ピッコロ・セルヴァンドーニ(1695-1766)
     母がイタリア人で、父はフランス人のようですが。

              
       わざわざ登場させるほどのものでもない肖像ですが、とりあえず‥‥


彼、実は肩書きが、たくさんありまして、

   風景画家、建築家、舞台装飾家、イベント興行主、花火ディスプレイヤー等々


先々回?ブログ記述のルイ15世皇太子誕生セレモニー(1730)のほか、
1739年にはルイ15世長女ルイーズ・エリザベートがスペイン王室へ嫁ぐ際のセレモニーも
手がけています。
この時は、結婚の神ヒュメナイオスを象徴する古代神殿を、セーヌ河面に浮かべ、
音楽を奏して祝したようです。

その彼、そもそもはパリ・オペラ座の舞台装飾家としてスタートしたようですが、
1732年にはパリ、サン・シュルピス教会ファサード・デザインを
コンペで勝ち取ってもいます。

      
          この教会、「ダヴィンチ・コード」にも登場しています。

               
       正面のオベリスクに向かっての(椅子の下に隠れていますが、)直線
             パリを中心とする、子午線です。
       そのパリでは、ノートルダムに次いで2番目に大きな聖堂です。


そして、何度も登場しているコンコルド広場設計のコンペにも参加していますが、
残念ながら、そこでは敗れてしまっています。

そんな彼ですが、イギリスにも渡っていまして、

      
             1749年 ロンドン、グリーンパークでの祝典、
                    オーストリア継承戦争終結を祝う祭典、

        
           花火の絵の中にも見えますが、このイベントのためのパビリオン
            の図面。彼セルヴァンドーニのデザインです。

      このとき、音楽を担当したのが、イギリス在住30年以上になる、ヘンデル。
     曲は、現代でも多く演奏される「王宮の花火の音楽」です。

この祝祭、4月27日に行われましたが、雨が降りだしたため、うまく花火は上がらず、
しかも、それによってか、火が他へ廻ったりでさんざんだったようです。
ただ、音楽に関しては、国王ジョージの希望で勇壮な響きを出すため管楽器のみでの
演奏だったようで、人々は大歓声をあげたとか、

  編成は、オーボエ24、ファゴット12、ホルン9、トランペット9、ティンパニ3、小太鼓等々
  当時としては、かなりな大編成です。

               

             美しいジャケットのCDも出ていますが、
                どうも、この絵は、当時の模様を描いたものではなさそうです。
             どちらにしても、この頃はまだ、打ち上げ花火は無く、
      筒のようなものから上へ火の粉が噴出すようなタイプのもの。

ちなみにパリでの最初の花火は、記録に残っているものでは、
1581年10月10日、ある人物の日記に、貴族の結婚を祝って上げられたとあります。
最初、人々は大変驚き、恐れたとありますが、
危険性の無いもの気付くや、すぐに馴染んだようです。


話が、すこし逸れてしまいましたが、
彼セルヴァンドーニ、イベントディレクターとしても、ヨーロッパあちこちを巡っていたようです。
最後に、彼の絵を一枚。

        
                   1731年 ローマ、思いつきの風景 
               とでも訳せば良いのでしょか?
              Roman Capriccio with the Coliseum
              and the Cestius Pyramid
, c. 1731
               Oil on canvas - 52 x 66.5 cm
              Valence, Musée des Beaux-Arts

           
               今日はこのへんで。
    




新年の手紙

 こんばんは。


手紙に関して書いてみます。
といっても、「新年の手紙」と題された詩集について。

               
                      1941年、イギリス版

作者、W・H・オーデン(1907-1973)
イギリス、ヨーク生まれの詩人ですが、1939年に永住のためニューヨークに渡った後、
イギリスで出版したもの。
そのアメリカで出版された版が、こちらですが、

                 
            書名が変わって、 「二重の人間」と題されています。
            中身はいっしょ、何故かタイトルが変えられています。
       イギリスをすでに、離れてしまったゆえのイギリス版書名になるのでしょうか?

もうすこし、彼について、付け加えるなら、ホモセクシュアルであったこと‥‥
  (イギリスよりアメリカの方が、寛容だったようです)
そして、もうひとつ、永住地をアメリカと決めながらも、世界を彷徨っていること、
ヨーロッパ各国、アイスランド、日中戦争勃発後の中国、
亡くなったのも、アメリカではなく、ウィーン‥‥

残念ながら、現時点で、オーデンのことは、これくらいしか書けません。

最後にもうひとつ、
彼は(フィッツジェラルド・ヘミングウェイも過ごした)1930年代という混乱の時代の中で、
詩に社会性を持ち込もうとしたこと‥‥

                  


さてさて、実はここまでが、本日の前置き、
本題は、そのオーデンの詩集を受けて、わが日本で刊行された一冊の詩集について。
出版は、オーデンの死と同じ年、1973年 題名も同じ、

                

         この詩集の中の同題詩を少し引用してみましょう。
   

       新年の手紙(その一)

   きみに
   悪が想像できるなら善なる心の持主だ
   悪には悪を想像する力がない
   悪は巨大な「数」にすぎない

   材木座光明寺の除夜の鐘をきいてから
   海岸に出てみたまえ すばらしい干潮!
   沖にむかってどこまでも歩いて行くのだ そして
   ひたすらに少数のもののために手紙を書くがいい

  

      新年の手紙(その二)

   元気ですか
   毎年いつも君から「新年の手紙」をもらうので
   こんどはぼくが出します
   君の「新年の手紙」はW・H・オーデンの長詩の断片を
   ガリ版刷りにしたもので
   いつも愉しい オーデンといえば
   「一九三九年九月一日」という詩がぼくは大好きで
   エピローグはこうですね━━
     『夜のもとで、防御もなく
     ぼくらの世界は昏睡して横たわっている
     だが、光のアイロニックな点は
     至るところに散在して、
     「正しきものら」がそのメッセージをかわすところを
     照らしだすのだ。
     彼らとおなじくエロスと灰から成っているぼく、
     おなじ否定と絶望に、
     悩まされているこのぼくにできることなら、
     見せてあげたいものだ、
     ある肯定の炎を。

   ナチス・ドイツがポーランドに侵入した夜
   ニューヨークの五十二番街の安酒場のバーで
   ドライ・マルチ二を飲みながら
   オーデンがひそかに書いた「手紙」がぼくらの手もとにとどいたときは
   ぼくらの国はすっかり灰になってしまっていて
   政治的な「正しきものら」のメッセージに占領されてしまったのさ
   三十年代のヨーロッパの「正しきものら」は深い沈黙のなかにあったのに
   ぼくらの国の近代は
   おびただしい「メッセージ」の変容の歴史 顔を変えて登場する
   自己絶対化の「正しきものら」には事欠かない
   ぼくらには散在しているアイロニックな光りが見えないものだから
   「メッセージ」の真の意味がつかめないのです
   大晦日の夜は材木座光明寺の鐘を聞いてから
   暗い海岸に出てみるつもりです きっとすばらしい干潮!
   どこまでも沖にむかって歩いて行け!
   もしかしたら
   「ある肯定の炎」がぼくの瞳の光点に
   見えるかもしれない
   では



「新年」という言葉から、思い出し作業をしてしまいました。
新年の手紙、新年にしか書けない手紙‥‥

そして、1939年9月1日 これも、つい最近書いた日付です。

 
では、今日はこのへんで。


3度目の新年

 こんばんは。

明けまして おめでとうございます。
本年も どうぞよろしくお願いいたします。

   このブログも三度目の新年を迎えてしまいました。
   勝手なことばかり書かせて頂いておりますが、
   どうぞ、ご了承のほど、よろしくお願い致します。

さて、折角ですから、
今年の干支に少し登場してもらいましょう。
実は、一部年賀状にも掲載させて頂きましたが、
佐野長寛(1794-1856) という京都の漆匠の食籠(菓子器)です。

       

               ペリーが来航した、寛永年間(1849?)の作

       
                こちらはその蓋、鳳凰が描かれています。

まことにおめでたい器、
中国古来から表される霊妙な四種の獣の内のふたつ。
ちなみに、残りの二つは、麒麟と霊亀
四霊とも、四神、四瑞とも呼ばれていますが、

  麒麟は信義を、鳳凰は平安を表し、霊亀は吉凶を予知し、龍は変幻を表現するようです。


作者の長寛という人、
いっぷう変わったひとだったようで、
父を失った二十歳頃から、名匠・名品を求めて諸国を遍歴(10年にもわたり)
帰京後は頭髪も髭も伸びるにまかせ、弊衣をまとい、
ひたすら新機軸の作品を生み出すことに力を注いだようです。
大塩平八郎に心酔し、尽力もしたという、反骨の人でもあります。
大徳寺に参禅し、妻とは和歌を応報していたとか‥‥


龍も鳳凰も、ある意味好き勝手に、おおらかです。


   すみません、あやかって、好き勝手に、おおらか?に、書いてしまいました。
   本年もどうぞよろしくお願い致します。

   実は年越しの記事をひとつかかえていまして、
   それをアップできるかどうか‥‥
   
   今日はこのへんで。

calendar
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< January 2012 >>
sponsored links
sumire
ブログ村ランキング
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM