音楽家たちとレオナルド、そして

   こんばんは、

   今回は二度目の登場になりますか?レオナルド?の作品から、

 

       

             from : wikipedia

         「 音楽家の肖像」 1485年頃 アンブロジアーナ美術館 ミラノ

     未完成ということもあってか、レオナルドの作品ではないという

     こともしばしば言われます、、

     

       当初この作品はレオナルドの信奉者である

       ベルナルディーノ・ルイーニ(1481or2-1532)が描いた

       ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの肖像であると言われていましたが、

       20世紀初頭に行われた絵の洗浄によって、

 

       

       

       手にしている紙片に文字と楽譜が浮かび上がり

       

               Cant Ang  

 

           つまり、Canticum Angelicum 天使の歌

 

       と読みとれることにより、描かれたのが当時ミラノ大聖堂聖歌長であった、

       そして、レオナルドの友人でもあった、フランキーノ・ガッフーリオ(1451-

       1522)の肖像ということで、一応は落ち着いているようです、(異説有)

       

       彼、ミラノ南東ローディ生まれですが、すでに1460年(9歳?)にはミラノ大聖堂

       聖歌隊に入り、1473or4年には聖職につき、その後、地元ローディ大聖堂歌手

       マントヴァ・ゴンザーガ家で音楽理論教諭、ジェノヴァ元首アドルノの教諭兼

       作曲家、ナポリでの音楽活動を経て、何冊かの音楽理論書を執筆し、

       1483年には、ベルガモ大聖堂聖歌隊長、翌年にはミラノ大聖堂聖歌隊長、

       1492年にはギナジウム音楽教授、そして、パヴィア大学教授に、、、

 

                                          、、、、

 

 

   当時、音楽家たちは、より良き待遇を求めてもあってか、各地を転々としていました、

   たとえば、もう一人あげるなら、当時のヨーロッパで最も重要な音楽家・作曲家の

   ひとり、ジョスカン・デ・プレ(1450 or 55-1525)も、レオナルドがミラノを訪れた際、

   当地に滞在中で、おそらくレオナルドとも言葉をかわしているでしょうが、生まれは

   フランドル地方、1474年頃には、先回登場のミラノ公ガレアッツォ・スフォルツァの

   招きでやって来ています、

       このガレアッツォかなり勢力的に音楽家を集めたようで、たとえばナポリ駐在

       大使に宛てての手紙が残っていて、

          「とりわけ王や他のひとたちが、歌手を引き抜こうとしているのが   

          われわれであることを悟られることのないように、くれぐれも注意されたい」

       と、書いています、、

   ガレアッツォ暗殺後、何人もの音楽家たちが、ミラノを離れる中(たとえばフェラーラへ)

   彼はミラノに滞在し続け、ガレアッツォの弟アスカーニオ・スフォルツァ枢機卿に

   雇われ、ローマへ(1486−94)、その後、ルイ12世の招きでフランスへ(1501−3)、

   その1503年には、再びイタリアにもどりフェラーラ滞在、しかしペストを避けて、翌年

   には、生まれ故郷フランドルに戻ります、、

 

 

   さて、最後にもうひとり、レオナルドと共にミラノにやって来たアタランテ・ミリオロッティ

   (1466-1532)、彼1491年には、おそらくレオナルドと共に?、マントヴァへ、そして、

   この地でオペラの主演歌手を務めます、

   演目は、ギリシア神話をもとにした「オルフェオ

   史上最古のオペラ作品ともいわれるものです

   (楽譜は完全な形で残っていないようですが)

   初演時主演は別の歌手でしたが、その二人目の歌手にミリオロッティが選ばれます、

        作詞は当代随一といわれたフィレンツェの詩人、再登場ポリツィアーノ

        (1454-1494)、作曲はマントヴァ宮廷で活躍していた4人のイタリア人音楽家

        達のおそらくは共同作業といいます、

 

 

        レオナルド、アランデル手稿に「オルフェオ」のためのスケッチがありまして、

 

              

                                       from; teatronovecento

 

            下部分の拡大ですが

 

         

                                    from:A.C.N.R.

   

         山が左右ふたつに割れて、中が冥界になるという舞台装置、

         この床の部分に、その下から人物が昇ってくるというものも

         考えていたらしく、現代のものとほとんど変わりません、、

 

       ただ、このスケッチどうやら1506〜08年頃に書かれたようで、

       このマントヴァでの公演に使われたかどうか?

       ただし、もう一回ミラノで、このスケッチが書かれたのと同じ頃に、当時

       ミラノを統治していたフランス人シャルル・ダンボワーズ(1473−1511)

       のために演じたという記録もあるようです、

 

 

   話がすこしそれてしまいましたが、ミリオロッティ、このひとは、ここマントヴァで

   ミラノに帰るレオナルドとは別れ、宮廷に残ります、、

   その後の詳しい動向は残っていないようですが、1513年になってローマ

   レオナルドと再会、この時彼は、ヴァチカンの建築工事の検査官という職務に

   ついていたとか、、

   この年の3月に教皇に就任していたレオ10世(1475−1521)は、

   、、これまた大の音楽好き、、

   

                     、、、、

 

 

   さてさて、そろそろ本題に入ってゆきますが、レオナルド、1517年死の2年前、 

   フランス、アンボワーズの彼のもとに、イタリア人枢機卿ルイジ・ダラゴーナ

   が訪れた際のことが、その秘書の手で書かれています、

  

     1517年10月10日閣下とわれわれの一行は、アンボワーズのある町外れに

    今日もっともすぐれた画家、フィレンツェ人レオナルド・ダ・ヴィンチを訪問

    した。彼は灰色の髭をして70歳をこえている。彼は枢機卿閣下に3枚の絵を

    示した。故ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼による、実物から描かれた

    あるフィレンツェの婦人の像、他は若い洗礼者ヨハネの像、三枚目は

    聖アンナの膝の上にいる聖母子の像で、それらはすべて完璧な出来具合

    である。一種の麻痺が右手を害しているので、彼に実際もはや良き作品を

    期待できない。しかしよく仕事のできるミラノ人の弟子を持っている。

    レオナルド氏は、彼独特の芳香さをもって描くことはできないが、まだなお

    デッサンをし他の人たちに教えることができる、、、

                                                     田中 英道 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」より

 

   レオナルドはこのとき65歳、、、

 

   右手の麻痺、、彼はそもそも左利きですから、たしかに油絵は少し難しいのかも

   しれませんが、、この文章の事実から、決定的に浮かび上がってくる事柄があります、

   それは、もう楽器が、リラ・ダ・ブラッチョが演奏できない、ということ、、

 

     ひとつ例をあげるなら、最初のミラノ時代に、友人でもあった数学者ルカ・

     パチオーリが彼の著作にレオナルドのことを書いていますが、

 

     もっとも威厳ある画家、遠近法、建築家、音楽家、すべての徳をそなえた

     学者   

 

   彼にとって、音楽はこころの中の大きな部分を占めていたとも言えなくはありません、

   そして、彼をとりまく、まわりの人々にとっても、、    

   しかし、この訪問時にはすでに、楽器を演奏することはできなくなっていました、

   この事実がレオナルドにとって、どのようなものであったでしょうか?

 

                 、、、、

 

 

       ということで、そろそろお時間、

       今日はこのへんで、、

 

 

 

           新たに加える参考文献として

 

           グラウト/バリスカ共著 新西洋音楽史 音楽の友社

           E・ガレン著 ルネサンス文化史 ある史的肖像 平凡社

          ピーター・バーグ イタリア・ルネサンスの文化と社会 岩波書店 

 

 

 

       


ミラノ 音楽家レオナルド・ダ・ヴィンチ

   こんばんは、

   まずは、フィレンツェの街のひとつの部屋から始めましょう、

 

         

          メディチ・リカルディ宮マギ礼拝堂

 

      小さな部屋の壁にフレスコ画が描かれています、

        ベノッツォ・ゴッツォリ(1421−97)作

        東方3賢王のベツレヘム(のイエス)へ向かう場面、、

         (1459−61)製作

      メディチ家の人々を中心に描かれていますが、その中に、、

 

  

                from ; wikipedia

                  描かれた人物、左下端、、

 

         

              from : wikipedia

      その右の人、、製作当時は10代半ば、

      ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ(1444-76)、

      後に父親の死をうけて、ミラノの僭主になる人物、、

      フィレンツェを何度か訪問しているようですが、

      

           

                 from : wikipedia

    こちら、 同人物、1471年頃の肖像、ポライウォーロ弟(1443−96)作

        フィレンツェ、ウフィッツィ美術館蔵

 

    ミラノ公になってからの肖像です、

    百合の紋章の上着、正妻がフランス王ルイ11世の妹であったため、

    そのフランス王家紋章でもあり、フィレンツェの紋章も百合であったため、、

    描かれたのは、当時彼が、表敬訪問していたフィレンツェにおいて、

    上のゴッツォリの作品をまねるように、数千の家臣団と共に訪れていた時と

    思われます、

    この人、音楽が大好きで、西欧一の音楽国をめざしていたようで、

    この時は、みずから40人ほどの音楽師を同伴していたといいます、

    そしてフィレンツェ側でその接待に当たった人物が、レオナルドの師匠の

    ヴェロッキョ、レオナルドも既にヴェロッキョの工房で活動していましたから、

    二人は顔を合わしていたとも思われます、

    師のヴェロッキョもレオナルドも音楽を得意としました、

 

 

    ここで、もう一枚肖像画を、、ポライウォーロ兄(1429−96)の製作、、

 

          

          このブログ再登場の、

        ルクレツィア・ランドリアーニ(1640−?)の肖像 

        1465年 ベルリン国立美術館 from : wikipedia

 

    上記ガレアッツォ・スフォルツァの愛妾です、

    彼女、ランドリアーニ伯爵の妻で、二人の子供を授かっていましたが、

    彼女に一目惚れした上記ガレアッツォに強引に妾にされてしまいます、、

 

 

    さて、そのガレアッツォ、父はルネサンスで最も幸運に恵まれた人とも言われる

    フランチェスコ・スフォルツァになりますが、その父親、ガレアッツの祖父に当たる

    人が、フランチェスコを世に送り出す時、3つのしてはならない

    行為を忠告していますが、

 

     1、他人の妻に触れるな、

     2、家来を打つな、もし打ったならその者を遠くへ去らせろ

     3、頑固な馬や、蹄鉄を落としたがる馬には乗るな

 

                        というもの、

 

     こうして明記されるということは、当時えてして行われていた

     ということになりますか、、

 

 

   

   そして、上のフィレンツェ訪問から5年後、とうとう事件が起こってしまいます、、

 

       

                             from : wikipedia

 

    木版画で刷られていますが、そのガレアッツォ、

    1476年12月26日にミラノ・聖ステファノ教会で暗殺されてしまいます、

    実は大変残忍な暴君でもあったようで、部下の何人かの貴族によって、

    命を奪われてしまいます、

 

                  、、、、

 

 

   さて、少しずつレオナルドに近づいてゆきますが、、

 

   このガレアッツォの死後、息子のジャンが幼くしてミラノ公を継ぎますが、

   実権はその執政となった、ガレアッツォの弟ルドヴィーコが握り、

   そしてやがて僭主の地位に、、

 

   そのルドヴィーコのもとに1482年フィレンツェからやってきたのがレオナルド、、

   ヴァザーリは書いています、、

 

     レオナルドは高い評判に囲まれながらミラーノ公のもとにやって来た。 

    公はリラの音を愛し、彼にそれを弾かせるために招いたのであった。

    その折レオナルドは自分の手で作った楽器を持って来たが、それは

    大部分が銀でつくられており、馬の頭蓋骨の形をした奇妙で新しい型の

    ものであった。しかしもっとも高い音でも調和がとれており、響きもよかった

    ので、彼はここに集い競い合ったあらゆる音楽師たちよりも優っていた。

    それに加えて、彼はまたもっとも秀れた吟遊詩人でもあった。

 

   彼を招いたとヴァザーリはレオナルドにとって良いように書いていますが、

   どうやらロレンツォ・メディチの指示でレオナルドは動いたようです、

   持参の銀製の楽器をルドヴィーコに献上するためとか、、

 

           

                  from ; pinterest

 

        復元された馬の頭蓋骨の形のリラ、正確にはリラ・ダ・ブラッチョ

        台座に弓が立てかけてありますが、、

        ブラッチョは腕の意、ビオラやヴァイオリンのように肩から腕にのせて

        弾きます、、

 

 

    レオナルドがいつ音楽の素養を身に付けたのか?

    ヴェロッキョの工房においてか、あるいはヴィンチ村の家族のもとでか?

    いずれにしても,彼は美声と演奏才能にめぐまれ、ミラノに同行した、音楽師

    アタランテ・ミリオロッティ(1466-1532)は彼の弟子だったとも、、

 

    ミラノ到着、「パラゴーネ」と呼ばれる音楽コンクールでは優勝したといいます、、

 

 

    レオナルドはその手稿(ヴァチカン・codice Urbinate)のなかに、、

 

      音楽は絵画の妹と称すべし---「音楽」は『絵画」の姉妹という以外に

      呼びようがない。たとえそれが眼に比べて第2次的な感覚たる聴覚に

     従事し、同時に作り出されて、調和に満ちた一瞬またはそれ以上の時間に

     生まれて死ぬることを余議なくされた比例的な部分部分の結合によって

     ハーモニーを構成しようとも、である。

     その時間がかかるハーモニーを構成する諸部分の比例を包括している

          こと、輪郭線が人間の美しさを生む諸肢体に作用するのと異ならない。

 

     だが「絵画」は「音楽」に勝りこれに君臨する。何故ならそれは、薄幸な

          「音楽」のように、生まれた直後に死にはしない、どころかむしろ存在し

          つづけて、実際単なる一片の平面にすぎないものに生命を吹きこんで

          君に見せるのだから。

          

    絵画を至上の芸術と考えていたレオナルドにとって、音楽もある意味無くては

    ならない存在であったようです、、

    当時、記譜するという行為はあまりなされていなかったようですが、それでも

    手稿に五線譜が見えます、

 

    

             from ; pinterest

 

    鏡面文字で書かれていますが、

 

      amore sol la mi fa remirare la sol mi fa solleita

         

         レソラミファレミ‥‥

           

      愛だけが私に思い出させる 愛だけが私をかきたてる

 

               と、読めるようです、、

 

               、、、、

 

    

     さてさて、とりとめもなく書いてしまいました、

     つづく、としておきましょうか、

     今日のところはこのへんで、、

 

 

        参考文献 以前からのものに加えて、

          ヴィンターニッツ 音楽家レオナルド・ダ・ヴィンチ 音楽の友社

          モンタネッリ ルネサンスの歴史 中公文庫

          高階秀爾 ルネサンス夜話 平凡社

 

          

         

      

 


もうひとりの近しい人‥

  こんばんは、

  まずは、一枚の作品から話を進めていきますが、

 

           

        ジャン・ジャコモ・カプロッティ(サライ)の肖像

         1502〜3年頃 個人蔵   wikipedia より

          サライ(1480〜1524) 20歳過ぎの頃のもの、

 

  このサライについて、ヴァザーリ(1511〜1574)が書いています、、

 

      またミラーノにいる間、弟子としてミラーノ出身のサライを雇ったが、

     上品さと優美さをかねそなえた愛らしい青年で、カールした美しい髪

     をしていた。

     レオナルドはとりわけ彼を愛した。そして彼に芸術上の多くのことを

     教えたが、ミラーノでサライの手になるといわれるいくつかの作品は、

     レオナルドによって筆が加えられている。

 

 

  レオナルド自身も何度も手稿に記録を残していますが、

  最初の記述が、パリにありまして、、(レオナルド38歳の時)

 

      1490年聖女マグダラのマリアの日(7月22日)ジャコモ来りて我と

     共に住む。10歳なり。

 

     泥棒。嘘付き。頑固。大食らい。

 

 

  このメモのあとに、彼の盗みぐせ等を何件も列挙しています、、

  しかし、レオナルドは彼を去らせるわけでもなく、その死まで生涯にわたって彼を

  傍らにおき続けます、

  1508年になっても、手稿にはこんな記述が、

    (この年、レオナルド56歳、サライ18歳)

 

     サライよ私はお前と仲直りしたい。もう絶対に戦争はいやだよ。

     だって私は降参しているのだから、、

 

 

  そして、死に際しての遺言状にも、

 

      同遺言人(レオナルド)は、ミラノ城壁外に所有する一庭園の半分

     すなわち小さい方をば、召使バッティスタ・デ・ヴィラニスに、同庭園の

     他の部分をば召使サライに爾今永久に贈与し譲渡する。

     この庭園には上記サライが家屋一軒を建築したが、この家も爾今永久に

     サライ、彼の嗣子後継者のものとする。

     これみなかれ(レイナルド)の召使デ・ヴィラニスおよびサライがかれに

     対して今までなせる善良にして手厚い奉公の報酬である、。

 

 

       この庭園はレオナルドが1499年にミラノ僭主ルドヴィコ・スフォルツァから

       贈られていたポルタ・ヴェルチェッリーナ外の葡萄園、

       その後レオナルドはフィレンツェ、ローマ、フランス等動き回っていますが、

       生涯手放さず持ち続けていました、、

     

 

  さて、そのサライ、、

  レオナルドが描いた彼の肖像といわれるものをすこし挙げてみますと、

 

              

                    from EONLINE 

            英、ウインザー城王立コレクション

 

        

               ウフィツィ美術館蔵、フィレンツェ 

 

             

                               from; leonardodavinci.net

               祝祭のための仮装 

                 ウインザー王立コレクション

 

        

                     from; wikipedia

              聖ヨハネ像 ルーブル美術館蔵

 

   このサライと男色関係にあったかどうかは置いておくとして、、

 

 

 

   当時のフィレンツェに関して、ある評者はこんなことを書いています、

 

      女性嫌悪、性的快楽の憎悪、そして同性愛への憧憬は、15世紀

      イタリア文化の基本的モチーフである

 

   この傾向を早い段階で危惧した1325年の政府の法令には、こんな条例が、

 

      少年と性的関係を犯し堕落したる者が発見された場合は、

      去勢の刑に処せられる

 

     しかし1365年にはいくつかの修正条項がくわえられ、罪を犯した者に火刑が

     宣告されています、、

     それでも実際にはこの件で有罪判決を受けた者は非常に少なく、1348年から

     1432年までの間で、56人、内死刑が44人、去勢が2人、残りは罰金刑、、

 

     そしてその1432年、人口減少を危惧した政府により再び法改正が行われ、

     夜間犯罪取締局が新設されてより日常的・効果的な検挙が目指されます、

     刑罰も罰金刑が主流になり、その分検挙者も増加します、

     結果、1432年から1502年までの告発者数は1万7千人、内、有罪者3千人

     という数字に、

     告発に関しては、タンブーロ(太鼓)と呼ばれる投書箱が置かれ、それに記載

     されると取調べが始まるというもの、、

 

 

    さて、この投書で、レオナルドは2度にわたって告発されます、、

    証拠不十分で有罪判決には至っていませんが、、

    彼がまず弟子入りしたヴェロッキョの工房にはこの風潮が蔓延していたとも

    いわれますし、兄弟子でもあったボッティチェリも告発されています、、

 

                  、、、、 

 

 

   ここで、話を戻して、そのサライ、

   レオナルドの人生においての最重要人物のひとりですが、

   彼に関して、1991年にミラノ国立古文書館で遺産目録が発見され、、

   その中には12点の絵画作品が記述されていましたが、そのうちに、

 

          レダと呼ばれる絵

          聖アンナいる絵

          ジョコンダと呼ばれる絵(モナリザ)

          大きな聖ヨハネのいる絵

 

       この4点の、現在ルーブルが所有している作品が列記されています、

       この3点になりますか、レダは消失していますから、、

 

            、、、、

 

    つづいて1999年フランスの研究者によって発表された論文に、

    1518年度のフランス王国の予算執行書のミラノ公国の欄に

 

       画家サライ・ディ・ピエトロ・ドレーノに対して、何点かの板絵を

       国王に献上した謝礼として、領収書を提出した場合にのみ、

       2604トゥール・リーブル、3スー、4ドゥニエ支払うこと

 

    という記載が、、、

    1518年、レオナルドの死の前年になります、

 

       さてさて、この両記述の重なりは??

       遺産目録の方は複製絵画になるのでしょうか?

       、、このブログでも何点か挙げましたが、

       もちろん正式な答えは出ていないようです、、

 

 

   こんな風にも登場してしまうサライですが、

   ここからがいよいよ本題になります、、

   先回からの引き続きの「最後の晩餐」

   小オの作品の製作時のレオナルドの年齢が43〜46歳

   サライは15〜18歳、

   二人の関係はミラノ宮廷でどのように受止められていたのでしょうか?

   普通の師匠・弟子あるいは召使の関係ではあり得ないようですが、

   

   それを踏まえて「最後の晩餐」をみると、

   イエスの左側のヨハネをイエスにもたれかかせるように描くと、

   サライとの関係をある意味吹聴するようにも受止められかねなくなります、、

   それをも考えて、あえて女性的なヨハネにしたのでは、、とも思ってしまいます、、

 

               、、、、

 

 

   最後にサライ本人に関してですが、レオナルドの死(1519年)後、

   ミラノにもどり、1523年結婚をしますが、

   翌年決闘で負った傷(銃痕?)がもとで死亡したといいます、(享年44歳)

 

               、、、、

 

 

     もうひとつ、サライについて書かなければならないような気もしていますが

 

         今日はこのへんで

 

          

   

          新たな参考文献

           チャールズ・ニコル「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯」白水社

           高橋友子「路地裏のルネサンス」中公新書

           ヴァザーリ「ルネサンス画人伝」白水社  

        

      


最後の晩餐 そのもっとも近しい者‥‥

  こんばんは、

  話しを続けます、まずは一冊の書物から

 

              

                    from The British Library

 

              

                    from Wikipedia

         ルーベンスが描いた上の書物の当初の所有者、

         イングランドのアランデル伯トマス・ハワード(1586-1646)

                    ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵

 

       彼がスペインで1630年代に手に入れたもので、

       モロッコ皮で装丁し自家の紋章を刻印しています、

       現在、大英図書館所蔵、

         中は、、

   

              from:The British Library arundel manscript 272r

 

              レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿(アランデル手稿)になっています、

 

   彼は、その膨大な手稿のなかで、プライベートな事柄にはほとんど触れていませんが、

   それでもいくらかの書き込みを残しています、

   上のアランデル手稿にも、右ページ上部にこんな言葉が、

 

     1504年7月9日、水曜日、7時。わが父、ボデスタ館公証人

     セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ死す、7時に。

     80歳なり、10男2女を残す

 

          ボデスタ館とは当時の司法庁舎、

          現在のバルジェッロ美術館

          上の写真で見ていただけるようにレオナルド本来の鏡面文字ではなく、

          普通の文字並びでそれも少し大きく書かれています、

          どうか読んでください、と言わんばかりに、、

 

 

   レオナルドは長男でしたが、母はセル・ピエロの妻ではありません、

   貧しい農家の娘で、それゆえレオナルドは庶子になります、

   彼が生まれたその年に、父はフィレンツェの名家の娘と結婚、、

   しかし彼女には子供が出来なかったので、彼は父やこの養母、祖父母、叔父

   とともにヴィンチ村で育ちます、

   生母は、彼を生んだ年に別の男と結婚、させられて?います、

 

   ですから、彼にとって母とはこの養母のこと、

   ふたりの関係は良好であったともいいますが、

   この義母、レオナルド12歳の時に不幸にも難産で死亡

   その後、父はすぐ後妻を娶りますが、(この時レオナルド13歳、母16歳)

   しかし、今度の養母も子を残さず死亡、

   直ちに3度目の結婚して、やっと嫡男(長子)が生まれますが、

   すでには父50歳、レオナルドは24歳、養母18歳という状況、、

   この養母も5人の子供を残して先に亡くなりますが、その後、またしても父は再婚、

   最後の子供が生まれたのは、セル・ピエロ死亡後というようなありさま、、  

                  、、、、

 

 

   さてそんな中での実母、、カテリーナという名前ですが、

   そのレオナルドの手稿の中に、カテリーナという記述が、計4回登場します、

   これらのカテリーナという人物が同一人物で実母であるかどうか異説はあるようですが

   どうやら、母親であろうということのようです、、

 

   そしてその最初に登場する記述、

   それはイタリア・ミラノ、アンブロジオ図書館所蔵の手稿

 

     

           from;Esperienziando Vitae

      アトランティコ手稿と呼ばれるもので、

      レオナルドの弟子であったミラノの小貴族のフランシスコ・メルツィが

      フランスでの師匠の死後、持ちかえったものですが、

      この中に、

 

       そちらではどのような暮らしぶりか私に言ってくれカトリーヌが‥‥したい

       かどうか私に言ってくれ、

 

              というもの、

             1480年頃のメモで、まだフィレンツェにレオナルドがいた頃のもの、

 

       

   2つ番目のものが、イギリス・ロンドンに

 

       

             © V&A Images/Victoria and Albert Museum

       ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館所蔵

       フォスター手稿と呼ばれるもので、ミラノで活動している頃のもの、

       この中に、

 

         7月16日

        カテリーナは1493年7月16日に来た

 

             とあります、、

     1493年、レオナルドは「岩窟の聖母」の製作を終え、

     翌年からの「最後の晩餐」を控えた時期、

 

 

   3つ目の記述が、パリ学士院図書館に、

 

         1494年1月29日

        カルツェのための布  4リラ3ソルド

        裏地  16ソルド

        仕立て代  8ソルド

        サライのために  3ソルド

        碧玉の指輪  13ソルド

        星石  11ソルド

        カテリーナのために  10ソルド

        カテリーナのために  10ソルド

 

      パリにある手稿は、どうやらナポレオンがイタリア遠征時に

      略奪して持ち帰ったもの、

      後に返還されたものが、上記ミラノのアンブロジア図書館蔵の手記

      になります、、

      1494年、この年から「最後の晩餐」の製作が始まります、

 

 

   そして、最後の4つ目のメモが、

   上記、ロンドンのフォスター手稿のなかに、、

 

           カテリーナの埋葬の費用

        蝋燭3リップラ(約900グラム)  27ソルド

        棺代  8ソルド

        棺の掛け布  12ソルド

        十字架の運搬および建立費  4ソルド

        遺体はこび人足代  8ソルド

        司祭4名および助祭4名へ  20ソルド

        鐘、本、スポンジ  2ソルド

        墓掘り人夫代  16ソルド

        長老へ  8ソルド

        公式許可書代  1ソルド

         計  106ソルド

 

        (それに先立つ費用)

        医師へ  5ソルド

        砂糖と蝋燭  12ソルド

         計123ソルド

 

     1493年にミラノにやって来たカテリーナですが、

     このメモが書かれたであろう1495年頃に、亡くなってしまいます、

     わずか2〜3年ほどの生活、、  

     カテリーナは60代半ば過ぎ、、

 

     さて、この123ソルドという金額、

     諸説あるようですが、

     当時のレオナルド工房の一日の食費が30〜40ソルドであったといいますから

     どう考えても、大した金額ではありません、

 

     それゆえこのカトリーヌを母ではなくただの家政婦と考える説もあるようですが、

     ミラノ宮廷で華々しく活躍していたレオナルド、

     もしこの農家の老女をおおやけに母として迎え入れていたなら、

     彼女にも当然母としての公的な役目がいくらかなりとも生まれてしまいます、

     二人の間には、その関係を秘密として、生活するという了解があったのでは、、

 

     それゆえのこの葬儀費用、、

 

 

     そして、もうひとつ付け加えれば、

     上記のメモの中の、繰り返しのことば、

     レオナルドは、ほとんど繰り返しのことば使いを、メモではしないと言いますが

 

       まず、父の死亡時に、7時、という言葉を2回、

       カテリーナ画やって来たときに、7月16日、を2回

       そして、そのカテリーナのために、10ソルド、と2回、、

 

       暗号のように、繰り返しています、、

 

               、、、、

 

 

   さてさて、いよいよ「もっとも近しい者の間の最も離れた距離」に

   近づいてゆきますが、

   

   

 

   カテリーナが亡くなったのが、1495・6年

   この作品の製作中です、、

   

   いま触れてきたことを思いながらこの作品を見ると、

   イエスがレオナルドに見え、その最も近しいと言われたヨハネが

   カテリーナに見えてきます、

   カテリーナを実母であると告白した時の、弟子やまわりの人たちの反応、、

 

   、、先回のブログで触れましたように、ヨハネは聖母とも似ていますし、、

 

       これは、あくまでも、雑談の域ですが、、

 

                、、、、

 

 

        もっとも近しい者の間の、もっとも離れた距離、、

 

                 、、、、

 

 

        実はもうひとつ、この言葉から考えられることがあります、、、

 

 

 

          さてさて、相変わらず、更新がとどこおっています、、

 

          今日のところはこのへんで、

 

 

 

          そうそう、参考文献、

          先々回からのものに含めて

 

              斉藤泰弘 レオナルド・ダ・ヴィンチの謎 岩波書店

              ドラッツィオ レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 河出書房新社

              セルジュ・ブランリ レオナルド・ダ・ヴィンチ 平凡社 

                         他

 

 


最後の晩餐 試論

   こんばんは、

   話を続けなければと思っております、まずは一枚のフレスコ画から

   

                                            from Olga's Gallery

 

      カスターニョの最後の晩餐  聖アポローニア修道院 フィレンツェ 1447年

     

                     from; Art in Tuscany

          

          左から、おそらくペテロ、ユダ、イエス、ヨハネ

          この作品でも、ユダは一人テーブルのこちら側に座っています、

 

   そもそも、「最後の晩餐」 ご存知のように4福音書それぞれに記者によって

   記述が異なっていまして、先回はマタイ福音書を引用しましたが、

   マルコ福音書では、

 

     「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと

     一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」 弟子たちは

     心配して、ひとりひとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。

     イエスは言われた、「12人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢に

     パンをひたしている者が、それである、、

                          14.18

 

   ルカでは

 

     「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。人の子は

     定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るそのひとは、わざわい

     である。」弟子たちは、自分たちのうちだれが、そんなことをしようとしている

     のだろうと、互いに論じはじめた。

                           22.21

 

   そして、ヨハネ

 

     「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを

     裏切ろうとしている」。弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、

     互いに顔を見合わせた。弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が

     み胸に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、

     「だれのことをおっしゃったのか、しらせてくれ」。その弟子はそのままイエスの

     胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、イエスは答えられた

     「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれ

     の食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。

     この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。「しようとして

     いることを、今すぐするがよい」。席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう

     言われたのか、わかっていた者はひとりもいなかった。

                                                             13.21   

 

 

   レオナルドの作品には、上のヨハネ福音書のペテロのコメントも反映されています、

   

   ここで再び弟子たちの配置に話をもどしますが、

   イエスのまわりの弟子たちの順番は、

 

       ペテロ、ユダ、ヨハネ、、イエス、、大ヤコブ、、

       (トマス、ピリポの着座位置ははっきりしません、)

       頭部の見える位置とはズレがあります、

 

         

 

       イエスにとって本来の重要な弟子といわれる面々を挙げますと、、

 

           ペテロ、大ヤコブ、ヨハネ

 

       一般にこの3名になります、

          イエスはこの3名の前で”変容”して、神の姿をみせ、

          またこの最後の晩餐のあと、この3人を連れだって祈りをあげます、

            

                                             from  Art & Critique 

       イエスの向かって右隣に座る大ヤコブ

       (あの巡礼地サンチャゴ・コンポステーラに眠っているとされる人物)

       彼はイエスの方へ近づこうとするトマス、ピリポを両手で阻んでいます、

       おそらく?自分は裏切り者でないと確信できるがゆえに裏切り者を含む

       他の弟子からイエスを守ろうという行為でしょうか?

       そして、イエスの手の動きを注視しています、、

       

 

       しかし、如何せんトマスのほうがイエスに近づいてしまいました、、

                      、、、、

 

   さて、ここでもう一枚再登場でもある作品を、

        

        レオナルド 岩窟の聖母 ルーブル美術館蔵 1483-86

 

         この作品のマリア

 

          

 

     ヨハネの姿によく似ています、、

     ダ・ヴィンチ・コードでマグダラのマリアにされたのも無理もありません、

     普通に見るなら女人、

     しかし、この当時、性を変換して描くこともよくあったともいいます、

     

 

     そして、ふたりの体の姿勢も他の人物たちとは異なって正面向きに

     服装も同じように描かれています、、

     手のかたちはイエスは両手を広げ、ヨハネは前で組んでいます、

     夫婦の姿とも見えてしまいます、、

 

 

  しかし、このもっとも近しいと言われる二人の間の、もっとも大きな隔たり、、

  そう見ると、イエスの孤独がより鮮明になります、、

  

       彼は翌日処刑されるわけですから、

 

 

  そしてその二人の間の窓と入口?から垣間見えるのどかなロンバルディア風景

  レオナルドが描いた風景のなかで最も穏やかな自然です、、

  イエスの孤独・苦しみの後に控える安らぎのような、、

 

                      、、、、

                     

 

   さらに、描かれた画面についてすこし付け加えるなら、

     イエスの両サイドに着座している大ヤコブとヨハネは兄弟

   

     イエスを境としての左右のシンメトリーについては、

                    

       老人がそれぞれの側に2人ずつ、

       髪の毛が肩までかかった人物も2人ずつ、

       ひげをたくわえているのは、4人ずつ計8人

       

       向かって右側の6人は、中央にかたまるように山形の団体として描かれ、

       左側の人物たちは、それぞれ左右に分散して動こうとしています、、

     

 

                      、、、、

 

 

   さてさて、そろそろ本題に入らなくてはと思っているのですが、

   その本題 ”もっとも近しい者の間のもっとも遠い距離”

 

 

       つづく としまして、

       今日はこのへんで、

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最後の晩餐 ダ・ヴィンチのメッセージ

  こんばんは、

  久しぶりの更新になります、

  このところ、すこし頭に引っかかっていることを、書いてみます、

 

  まずは、一枚の地図から、、、1499年頃のイタリアです、

     

 

   中央部大きく見えるFirenze (フィレンツェ共和国)、その横にUrbino(ウルビーノ公国)

   その下部には大きくローマ教皇領、

   このウルビーノ公国、そもそもは教皇領でありましたが、1443年に教皇の許可により

   独立、以後200年にわたって存続しますが、最後の領主に後継ぎが無かったため、

   1631年、再び教皇領に戻ります。

   しかしその200年の間ウルビーノ宮廷はルネサンス文化の一つの中心として栄えます。

 

   さて、その滅亡時、宮廷に残された遺産のうち、公国の記録文書、高価な家具

   調度品、宝飾品、そして名画の数々は、唯一に遺産相続人であり、フィレンツェの

   大公に嫁いでいた姪ヴィットーリアに相続され、豪華な写本や書籍の数々は

   ヴァチカン図書館に運ばれます。

 

     公国の最初の領主、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロは書籍収集のため

     常に30〜40人の写本家を各地に派遣していたといいます、、

 

   そのなかに、今日の本題に近づくためのレオナルド・ダ・ヴィンチの文章が

   含まれていました、、

   彼の絵画論です。   

      

     「画家は、自分を魅惑する美を見たいと思えば、それを生みだす主となり、また、

     肝をつぶすほどの奇々怪々なものであれ、ふざけて噴き出したいような者、

     実際可愛そうなものであれ、何でも見ようとおもえば、その主となり神となる。

     またもし、さまざまな土地や沙漠、暑い日には陰深く小暗い木立を生み

     出したいとおもえば、かれはそれを描く。

     もし渓谷が入用なら、もし山々の高嶺から広野を見はらしたいなら、またもし

     その彼方に平らな海面をみたいなら、かれはその主である。もし低い谷から

     高山を仰ぎ、あるいは高い山から低い谷や傾斜面を俯瞰したいというなら、

     [それも同様だ]。実際この宇宙のなかに本質として、現在としてあるいは

     想像としてあるものを、かれはまず脳裏に、次には手のなかに所有する。

     そしてそれは非常に優秀なので、それらがいかなるものであろうとも、同時に

     一眸の中に均衡のとれた調和を生じる。

              「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上」 岩波文庫

 

          この記述たとえば以前に触れた「モナリザ」の背景等にもそのまま

          当てはまります、、、

          今回は「最後の晩餐」を見てゆきますが、

 

        

                                         

  

  まずは、その本題に入るまえに「最後の晩餐」という史実?について

  すこし見ておきましょう、

 

  「新約聖書」福音書4つにその記述が残っていますが、

  最も成立が古いとされる「マタイ福音書」から

 

    「さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、

    「過ぎ越しの食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」

    イエスは言われた、「市内(エルサレム)にはいり、かねて話してある人の所に

    行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと

    一緒に過ぎ越しを守ろうと、言っておられます』。弟子たちはイエスが命じられた

    とおりにして、過ぎ越しの用意をした。

    夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。そして一同が

    食事をしているときに言われた。「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの

    うちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちは非常に心配して、

    つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではではないでしょう」と言いだした。

    イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、

    わたしを裏切ろうとしている。たしかに人の子は、自分について書いてある通りに

    去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は

    生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。イエスを裏切ったユダが

    答えて言った。「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、

    「いや、あなただ」。

    一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに

    与えて言われた、「取って食べよこれはわたしのからだである」。また杯を取り、

    感謝して彼らに与えて言われた、「みなこの杯から飲め、これは、罪の許しを

    得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。     

 

 

  たとえば、レオナルドより15年ほど前に、フィレンツェで描かれたもの、

 

    

                         from "Art and The Bible"

                                 ギルランダイオ 「最後の晩餐」 サンマルコ美術館

 

     裏切り者ユダはテーブルのこちら側に、使徒たちにも大きな動きはありません、

     ダ・ヴィンチの作品は画面の設定をキリストが裏切り者がいると言った瞬間に

     絞っています。

 

    

 

     各人それぞれに異なった様々な動き、3人づつ4つのグループに分かれ

     波打つように描かれています、、

     イエスその人だけが中央にひとり使徒たちから離れるように孤独に座る姿、

 

     このひとりひとりには、もちろん人物設定されていて、画面左から

 

                   バルトロマイ

                   小ヤコブ

                   アンデレ

                   ユダ(裏切り者)

                   ペテロ

                   ヨハネ

 

                   イエス

 

                   トマス

                   大ヤコブ

                   ピリポ

                   マタイ

                   タダイ 

                   シモン

 

             ひとつ付け加えるなら、

             これだけ各人が重なるように接近して描かれているにもかかわらず、

             ひとりひとりの手は、すべて違うかたちで隠れることなく、

             見えていること、、、

 

             

             さて、ここでひとつの疑問が、、

             使徒たちは何故この順番で描かれたのか?

             レオナルドは神のようにどういう順番でも描けたわけですから、、

 

     

             ここで全体像を見ていただきますが、

 

     

                              from "Ilumunelnforme.it"

                               ミラノ、サンタ・マリア・デル・グラーチェ教会

 

   イエスたちが食事している部屋とこちら側の間に、たれ壁が描かれ、

   そこにアーチで囲われた3つのエンブレムがみえます、

   中央の大きなものが、ミラノの領主ダ・ヴィンチのパトロンである、

   ルドヴィコ・スフォルツァのもの、向かって右が跡取の長男マッスりミリアーノのも、

   左は二男フランチェスコのものといいます、、

   序列は向かって右から始まっています、、

 

 

   ここで、もうひとつ、レオナルドの手記を引用しましょう、

   こちらは現在、フランス学士院図書館?に保管されている直筆のメモから、

   (こちらはレオナルド晩年の死まで彼自身が手元に持っていたため、

    フランス王家の所有になったものでしょうか?

 

 

     「その理論が経験によって確証されないあの思索家たちの教訓をさけよ。

 

     「しかし私は、もっと先に進む前にまず何かの実験を行おう。なぜなら私の意図は

     まず実験を挙げてしかる後になぜかかる実験がかかるふうに作用せざるを得ない

     かを、理論によって証明するにある。そしてこれこそ自然の諸現象の思索者たちが

     よってもって進むべき正しい法則である。自然そのものは理論に始まって経験に

     終わるにしろ、われわれにとっては逆に追求することが必要である。すなわち、

     上で言ったように、実験から開始して、それによって理論を検証することが。

             ダ・ヴィンチの手記 下  科学論 岩波書店

     

 

   「最後の晩餐」の弟子たち、、イエスに一番近い序列として描かれているのは

   上記の息子たちのエンブレムの配置からもうかがえる様に、

   他でもありません、何度もこのブログに登場している聖トマス、、 

      「懐疑のトマス」とも呼ばれる人、

 

      イエスが復活し、弟子たちの前にあらわれた時、その場に居合わせなかった

      トマスは、

      「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、

      わたしの指をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」

      と、イエスの復活を信じようとしません、 

      そのためイエスはトマスの前に姿を現し、傷跡に指をさし入れることを

      勧めます、そして、

      「信じない者ににならないで、信じる者になりなさい」と言い、

      「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、

      さいわいである」と言い足します、、

                  ヨハネ福音書20章

     

      この記述は宗教のある本質を言い得ていますが、

      レオナルドの上記の手記とは、相反する言説です、、

      見方によれば、弟子たちの筆頭にトマスを持ってきたレオナルドは

      彼自身の信念をここで表現しているともとれます、、

 

 

      たとえば、上のギルランダイオの「晩餐」では、

      向かって右に、イエスが最も愛した弟子ともいわれるヨハネ、

      左には一般的に「第一の弟子」と呼ばれるペテロ、

      初代ローマ教皇といわれるペテロを描いていますが、、

 

             

 

 

        

     

 

           

 

      レオナルドのペテロはギルランダイオと同じくパン切ナイフを手にしていますが、

   ある悪意のような雰囲気をにじませています。なおかつ体の動きとして、

   手首の曲げられた様子があり得ないように描かれています、

 

      ペテロは元来気が短く攻撃的な面も持っていたようですが、

      あまりにあからさまに描いているような、、

      ローマでこの作品を描いていれば、教皇庁から攻撃されそうな、、

      序列に関しても、イエスから離れています、

                   、、、、

   

 

 

    さてさて、すこし長くなってしまいました、

    まだまだ、書かなくてはならないこともあるのでしょうが、

 

    今日は、このへんで、、

 

 

         そうそう、参考文献を挙げるのを忘れていました、

 

           ブルクハルト 「イタリア・ルネサンスの文化」 中央公論社

           ケネス・クラーク 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」 法政大学出版局

           フランチェスコ・ルイ・ロンバルディ 「ウルビーノ大公国の歴史 

                                            1431-1631年」

           下村寅太郎 「ルネッサンス的人間像」 岩波新書

           片桐頼継 「ダ・ヴィンチという神話」 角川書店

           アメリア・アレナス 「よみがえる最後の晩餐」 日本放送出版協会

           J・ワッサーマン 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」 美術出版社

                                 他

           

 

    

 


死のありよう

   こんばんは、

   今回はまずこの図面から、、

     

              from:Basilica of St Denis

 

 

   サン・ドニ大聖堂、中央祭壇部付近の平面図です、、

   番号が打たれているのは、墓像の数々、、

   先回登場しましたアンリ2世とカトリーヌの着衣墓像が左上68番(3つ目の像)

   2番目の二人並んだ裸像がその下67番

   その下、62番は、この像のモデルともなった、ルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュ像

 

       

 

   右側72番は、当初この聖堂に埋葬されなかった、

   マリー・アントワネットとルイ16世像

   刑死後、二人の遺体はマドレーヌ墓地(現贖罪礼拝堂)に他の処刑者とともに

   埋葬されます、現在遺骨は移されてここの地下にあるようですが、

   本当に彼らのものかは、疑問があるとも、

 

       

 

   その後ろに見えているのが、64番、フランソワ1世とクロード・ド・フランス像

   アンリ2世の両親です、、

   一番最初に登場したルイ12世の娘が、クロード・ド・フランス

 

           

 

 

 

 

   さて、墓像はこれくらいにしてサン・ドニにすこし触れてみます、、

   まずは、ルーヴルにある一枚の作品から、

   作者は絞りきれないようで、、不詳、

         パリ議会のために描かれたようで、1449〜53年ころの製作とか、

                  226×270cm

 

    

                                from;Louvre

 

     中央部にキリスト磔刑図、左にマリアとマグダラのマリア、右に使徒ヨハネ、

     そのキリスト左背景はゴルゴダの丘、建っているのは聖墳墓教会か、

     そして、左手の二人の人物、、

 

      

                                       from:Flickriver

 

        左再登場人物、セント・ルイス、聖王ルイ(2011.7.1記)

          フランス王家紋章百合のマントをはおっています

        右は何度も登場してます、洗礼者ヨハネ

 

           

 

           面白い表現の、聖書に子羊

        背景には、セーヌ河、そして古いルーヴル宮、、

 

     さてそして右手は、、

 

      

 

       右手は、シャルルマーニュ(カール大帝)742-814

                      1165年、列聖、

         正義の剣と水晶玉を持っています、

         帽子はどうも東洋風?

 

     そして、中央にサン・ドニ、

     背景の丘は、彼が処刑されたモンマルトル、

       古代ローマ時代は、モンス・メルクリウス(Mons Mercurius)

       メルクリウス(マーキュリー・ヘルメス)の丘と呼ばれた聖地で

       あったようですが、彼が処刑された後、Mont des Martyrs

       (殉教者の丘)と名が変わり、現在の Montmartre に、、

 

      

       

                  from:scribe4haxan

 

        まだ、血が噴き出しています、、

        しかし、いくぶん右足を前に出して歩こうとしている姿勢、、

          後ろの二人は同じ時に殺された宗教者たち、

      

     

    さてさて、そもそものこのサン・ドニ大聖堂

    最初に建てたのは、聖ジュヌヴィエーブ(再登場)とか、

    そして、上のシャルrマーニュによって完成され、

    現在目にする修道院聖堂はシュジェールによって、1140年に建立され、

    聖王ルイによって、バシリカ部分を増築されます、、

 

      上記三人はそれぞれにかかわっています、

      しかし、シャルルマーニュの墓はここにはありません、、

              、、、、

 

 

      ひとつ、蛇足をのべるなら、

      このサン・ドニの行為、

      つまり首を持って歩くという動作、、

      まだまだ、他の殉教者の例があるらしく、、

      数をかぞえてゆけば、、50例にも及ばんとするとか、、

 

        さてもさても、、

 

 

 

 

        すでにそろそろ良き時間、、

        何らまとまりもなく書いてしまいました、、

        それでは、

        今日はこのへんで、

 

 

 

        今回新たに付け加える参考文献はありません、

 

 

 

    

      


死のかたち

   こんばんは、

   今回もある写真から、、

 

        

           from:Louvre               SPAZIO no.70

 

      アンリ2世(1519-59) (再登場2010.9.〜10 記)の槍試合での死をうけて、

      その妻、カトリーヌ・ド・メディシスの1561年の依頼により

      5年がかりでひとつの大理石から彫り上げた三美神像、

        作者はジェルマン・ピロン(1537-90)

        高さは、1,5mほど、ルーヴル蔵ですが、

 

        その付けられている題名が、、

          「アンリ2世の心臓記念碑」

          頭上の丸い器に、アンリ2世の心臓が入れられていました、、

          どうやら今は存在しないケレスティヌス会修道院聖堂(パリ)

          に保管されていたようです、、

 

    アンリ2世の身体の埋葬場所は、あの、パリ、サン・ドニ聖堂

        (何度も登場しています)、、

 

       当時フランスは分葬(2〜3分割)の習慣があり、

         十字軍遠征等の事情から生まれたようで、  

         傷みやすいイ内臓は死地、心臓は宗教的な場所、

         遺骨はサン・ドニというように、、

 

           この風習、ローマ・カトリックは禁止していましたが、、

 

               、、、

 

 

    さて、その奥さんの、カトリーヌ・ド・メディシス(1519-89)

    イタリア・フィレンツェ・メディチ家からフランスへ嫁いだ人(14歳時)ですが、、

    彼女生涯に3度、自らのお墓を造っていまして、、

      どの順番でこの3つの墓を登場させるかが、大変難しいのですが、、

      まずは、2番目に造った墓から、、

      作者は上の心臓記念碑と同じ、ピロン、

 

    

                                      

                    

                                                from:pinterest

     夫アンリ2世像は死後硬直によって、のけぞるような姿になっていますが、

     二人の肉体は、若々しく、、

     たとえばカトリーヌのポーズは、、

 

                 

                     from:wikipedia

      左右の手が異なりますが、彼女の故郷フィレンツェにある

      ボッティチェリのヴィーナスそっくり、、

      製作は1565から1570

               、、、、

 

     

     その最初に、彼女が作ったものは、ルーヴルにありまして、、

     1566年頃まで製作されていたようですが、

     作者の死によって未完成で終えられています、

 

  

                              from:w3.osaachivum.org

              ジローラモ・デラ・ロッビア(1488-1566)作

         この人フィレンツェ人でフランス移住組のひとり、

       依頼は、夫アンリの死後数年たってから、

          最初の「心臓記念碑」と同じころでしょうか、、

 

       当時フランスではまだ中世の名残で、「腐敗死骸像」が主流でした、

       先回の「死の勝利」とおなじ流れで、

       「メメント・モリ、死を想え」という風潮が色濃く残っています、、

                、、、、

 

       

 

    そして、最後のものがこちら、、

 

  

     

     作者は、またしてもピロン、

     年取ったカトリーヌの本来の姿、(2重顎になっています、、

        夫アンリ2世も同じように太らされています、、

     こちらもサン・ドニにあります、、

 

     製作依頼は彼女の死の6年ほど前(1583年?)、

     「死」の時点ではまだ完成していませんでした、

     完成は、彼女の死後1590年?

        この彼女の体型が本当の姿なら、

        さすがに最初の若々しいヴィーナス風のものに納まるのには

        気が引けたのでしょうか、、

 

        しかし、時代は、2013.2.19、に挙げました、

        彼女の息子の嫁・メアリー・スチュアート墓像とおなじように、

        この流行・風潮にあったようです、、

                、、、、

 

    

    さてさて、[死のかたち] として、どうしても登場してもらいたかったものたちを

    挙げてしまいました、、

    そもそも最初に遭遇したのは、

 

                         

 

           このあたりからだったでしょうか、

      デュ・コーロワ(1549−1609)作曲、

      「フランス王のためのレクイエム」1999年製作のCDジャケット、

        撮影角度が異なっているため分かりにくいですが、

        最初に挙げましたアンリ2世像です、、

 

           、、美しい死曲が流れます、、

 

 

       蛇足になりますが、、 面白いのは、このジャケット裏面、、

 

                        

                  

                            王の足の裏が全面に印刷されています、

 

                 、、、、

 

 

        、、さて、すでに よき時間、、それでは

          今日はこのへんで、、

 

 

            参考資料、先回からのものに引き続き

              小池寿子、「身体をめぐる断章」 SPAZIO NO,70

              ルーヴル美術館、ホームページ

              高階秀爾 「ルネサンスの光と闇」中公文庫 等々

 

 


ペスト 死の勝利

   こんばんは

   今回はまずシチリア島パレルモ州立美術館にあるフレスコ画から始めます、

 

    

               from: LA BOTTEGA DEL PITTORE

 

 

                    from: wikipedia 

     15世紀半ば頃描かれたようですが、作者は(諸説あって)不明、

     大きな作品で、600×642cm  人物がほぼ等身大で描かれ、

     「死の勝利」と題されています、

 

      中央、腰に矢と大鎌を帯び、左手に弓をもち、今まさにその矢を放ったという

      姿勢の死神?

 

      画面右上、まだ死の馬が至らない場所では音楽士などが登場して、

      命の象徴でもある泉(噴水)も見え、生の享受が描かれていますが、

      その下には、いましも死の矢を受けたばかりの人々が、

 

 

     

 

      馬の腹の下には、矢を受け死した人びと、

      教皇や皇帝、枢機卿、聖職者、学者、錬金術師の姿も、、

 

     

 

        画面左下は、死者を悼む人々や、死神?に手を合わしている人が

 

               

 

        上部、こちらを向いている二人はこの作品の制作者とも、、

 

 

 

   ここで、ひとつの文学作品から引用してみましょう

 

    「言っておくが、まず、神の子が肉体に結実してから1348の歳月を数えた時のこと、

    イタリアの美しい町々のなかにあってもひときわ秀でた花の都フィレンツェに、

    死の疫病ペストが襲いかかってきた。

    天の球体の運行のなせるわざか、あるいは私たちの罪業に怒りを覚えて神が

    死すべき人間たちに正義の裁きを下されたためか、その数年前に東方の各地に

    発生して、かの地において無数の人々の命を奪い、とどまるところを知らぬ勢いで、

    つぎつぎにその行き先を変え、やがては恐ろしいことに西洋へ向かって、それは

    ひろがってきた。

    これに対して人間の側にはろくな才知もなく、何の予防も甲斐がなく、もとより

    都市は特別の係官を任命して、彼らの手ですべての汚物を浄めたり、城壁の

    内部へ一切の患者の立ち入りを禁止したり、衛生を保つためのありとあらゆる

    処置を講じたり、加えてまた敬虔な願も一再ならずかけられ、行列も整然と

    組まれて信心深い人びとの群れがひたすら神への祈りを捧げたが、それにも

    かかわらず、前述した年の春早くには、身の毛もよだつばかりの苦患の効果が

    現れはじめ、目を覆うばかりの惨状を呈しだした。

    (中略)病気の初期の段階でまず男女とも鼠蹊部と脇の下に一種の腫瘍を

    生じ、これが林檎大に腫れあがるものもあれば鶏卵大のものもあって、患者に

    よって症状に多少の差こそあれ、一般にはこれがペストの瘤と呼び習わされた。

    そしていま述べたように、身体の二箇所から、死のペストの瘤はたちまちに

    全身にひろがって吹きだしてきた。

    その後の症状については、黒や鉛色の斑点を生じ、腕や腿や身体の他の部分

    にも、それらがさまざまに現れて、患者によっては大きく数の少ない場合もあれば、

    小さくて数の多い場合もあった。

    こうしてまず最初にペストの瘤を生じ、未来の死が確実になった兆候として、

    やがて斑点が現れれば、それはもう死そのものを意味した。

            ボッカッチョ(1313-75) 「デカメロン」 河島英昭訳 

                                  講談社文芸文庫 

 

                     

   この作品の完成が1351-3年頃といいますが、

   ちょうど同じころ、1352年、このボッカッチョと友人でもあったペトラルカ(1304−74)が

   著した「凱旋」という作品(全6編)で、その3編目に、、

   1348年、ペトラルカの最愛の人ラウラをペストで失った悲しみを歌っています、、

   この作品がひとつの大きな契機となって、上の絵画のような死を扱った作品群が

   ヨーロッパじゅうに広がってゆきます、、

 

     (ちなみにボッカッチョ自身も、父親をペストで亡くしています、)

 

 

   この二人、、、 

   

                                                       from: PensArti

     フィレンツェ フィリッポ・カルドゥッチ(1449−1520)の別荘

     壁を飾っている有名人たち、、

     画面右端のふたり、、

 

       

                                                   from: wikipedia                 

           ペトラルカ(左)と ボッカッチョ

          その左横にはダンテがいますが、、

      現在このフレスコ画は取られて、ウフィツィ美術館に展示されています、

       (ちなみにこれを描いた画家カスターニョ(1421-57)も

        ペストで亡くなっています)

                  、、、、

 

 

   ペスト、、そのもっとも古い記述を挙げるなら、どうやら「聖書」に行きつくらしく、

          旧約聖書 「サムエル記」  紀元前11世紀頃成立

 

     「そして主の手はアシドドびとの上にきびしく臨み、主は腫物をもってアシドドと

     その領域の人々を恐れさせ、また悩まされた。

     アシドドの人々は、このさまを見て言った、「イスラエルの神の箱を、われわれの

     所にとどめ置いてはならない。その神の手が、われわれと、われわれの神ダゴン

     の上にきびしく臨むからである、、、

 

        (イスラエルの神の箱は戦によってペリシテ人の手に奪われていました、、

         この箱は相談の上、金の腫物5つと金のねずみ5つとともに返還されます)

 

                      、、、、

 

 

 

   そして加えるなら、ペスト3大文学作品というものがあるようで、

   上のボッカッチョにつづいて、

     「ロビンソン・クルーソー」のデフォー(1660-1731)の「ペスト」

     A Journal of the Plague Year  1722年出版

 

     こんなふうに始まります、、

 

       それはたしか1664年の9月初旬のことであったと思う。たまたま隣近所の

       人たちと世間話をしている際に、私はふと、ペストがまたオランダにはやり

       だしたそうだ、という噂をちらっと耳にしたのだった。またはやりだした、と

       いうのは、その前年の1633年に、オランダは、この疫病のためひどい目に

       あっていたからである。ことにアムステルダムとロッテルダムはその中心地

       であった。なんでも、その時の話のようすでは、ある者は、その疫病はイタリア

       から入って来たといい、またある者は、いや、レヴァント地方から帰航した

       トルコ通いの商船隊で運ばれた貨物にくっついてはいって来たのだ、とも

       いった。いや、なにあれはカンディアからだという者もいたし、中には

       サイプラスからだという者もいた。

       しかし、どこから疫病がやってきたかはもう問題ではなかった。問題は、

       再び疫病がオランダにはやりだした、ということだった。これには誰も

       異存はなかった。

                        平井正穂訳 筑摩書房

 

      

     そして、アルベール・カミュ(1913-60) 「ペスト」 La Peste 1947年出版

     一連の前置きにつづいて、こう書きはじめられます、

 

       4月16日の朝、医師ベルナール・リウーは診療室から出かけようとして、

       階段口のまんなかで一匹の死んだ鼠につまづいた。咄嗟に、気にも留めず

       押しのけて、階段を降りた。しかし通りまで出て、その鼠がふだんいそうもない

       場所にいたという考えがふと浮かび、引っ返して門番に注意した。

                       宮崎嶺雄訳 新潮社

 

 

                  

                                                from:bol,com  オランダ語版

 

 

                     さてさて、よき時間になってまいりました、

          最後にデフォー「ペスト」の最後に書かれている詩篇を、、

 

 

              ロンドン疫癘(えきれい)に病みたり、

              時に1665年、

              鬼籍に入る者その数十万、

              されど、われ生きながらえてあり。

                        H・F・

 

 

            今日はこのへんで、、

        

 

              参考文献、先回からのものに続いて、

                世界美術の旅ガイド4、南イタリア、美術出版社

                小池寿子「屍体狩り」白水社

                村上陽一郎「ペスト大流行」岩波新書

 

    


夜の画家

   こんばんは、

   どんな風に話を続けてゆくのか、分からないままに始めてしまいました、、

 

        

                                               from: wahooart.com

         まずは一枚の絵から

              ヘラルト・ファン・ホントホルスト(1592-1656)

                              使徒トマスの疑い 1620年頃、プラド美術館像 130×100?

    そのトマスに関して、ある文章を引用してみましょう、、

 

     トマス(Thomas)は、<深み>というほどの意味である。あるいは、<二重の者>

     という意味で、ギリシア語のDidymos(ディデュモス)にあたる。あるいは<分割>

     もしくは<分離>を意味するthomos に由来する。彼が<深み>と言われるのは、

     神性の深奥をきわめたからであり、つまり、キリストが彼の問いに

     「わたしは道であり、真理であり、生命である」と答えられたからである。

 

     彼が<二重の者>と言われるのは、主の復活が真実であることを、

     他の人たちのようにただ眼で見るだけではなく、見るとともに手でさわって

     二重に確かめたからである。

 

     彼が<分割>もしくは<分離>と言われるのは、こころを世俗の愛から分かったから

     であり、また、復活されたキリストを信じる点でほかの使徒たちと意見が分かれた

     からである。あるいはまた、Thomas は、totus means つまり、

     <あまねくめぐり歩く人>という意味でもある。

 

     すなわち、神への愛と観想とにおいてあまねくめぐり歩いたのである。

     というのは、この神への愛を証明するとりわけ3つのことが、彼にそなわっていた

     からである。

     プロスペルは、『観想的生活について』の中でこう述べている。

     「神を愛することは、こころのなかで神についての観想を切に熱望し、罪を憎み、

     世俗を軽蔑すること以外のなんであろうか」と。

 

               ウォラギネ「黄金伝説」使徒トマス、冒頭

 

 

     

    たとえば、「わたしは道であり‥‥」というキリストの答えを引き出した

    トマスの質問については、、

    そもそもその質問が発せられたのは、「最後の晩餐」のとき、

    「わたしを裏切ろうとしているものがいる」という言葉をイエスが呟き、

    裏切り者のユダがその場を去ってから、

    イエスはその自らの死を予測し、先に逝くことを暗示し、

 

      「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして行って、

      場所が用意できたら、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。

      わたしのおる所に、あなたがたも居らせるためである。わたしがどこへ

      行くのか、その道はあなたがたにはわかっている。」

      トマスがイエスに言った、

      「主よ、どこへおいでになるのか、わたしにはわかりません。

      どうしてその道がわかるでしょう」

      イエスは彼にいわれた。

      「わたしは道であり、真理であり、命である。

      だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

 

                新約聖書ヨハネ福音書、14章

                      、、、、

 

 

    もうひとつ、トマスに関する逸話を聖書から拾うと、、

    同じヨハネ福音書11章、ラザロを蘇らすためにもう一度ユダヤに行きたいと

    弟子たちに言ったとき、弟子たちは「ユダヤ人たちが、さきほどもあなたを

    石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」と反対したとき、

    トマスひとりが、

 

      「わたしたちも行って、先生とともに死のうではないか」

 

            と、みなを鼓舞します、、

            この言葉にイエスがどれほど救われているか、、、

                   、、、、

 

 

   さて、使徒トマスについて少し見てきましたが、

   そろそろ今日の本題に入ってゆかなければならないようです、、、

   まずは、上の2番目の文章、わたしは「道であり、、」に続く部分から、、

 

      だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(つづいて)

      もしあなたがたがわたしを知っていたならば、私の父をも知ったであろう。

      しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。

      ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。

      そうして下されば、わたしたちは満足します」。

      イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに

      わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。

      どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。

      わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。

      わたしがあなたに話している言葉は、自分から話しているのではない。

      父がわたしの内におられて、みわざをなさっているのである。

      わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。

 

           そう、イエスにたしなめられます、、

           その「ピリポ」、先回と同じシリーズで、ラ・トゥールが描いています、、

 

         

                                                    from:  wikipedia

          使徒ピリポ(フィリポ) クライスラー美術館 アメリカ

                                                    63×52

           、、先回のトマスの肖像とは打って変わって、

             内向的・内省的な作品、、

 

 

     今日の本題はこの画家を、と思っているのですが、

 

     ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593−1652)

     パン屋の息子として生まれ、当時のフランス国王ルイ13世付の画家にまで

     登りつめた人、彼の息子は貴族にまでなっています、、

     その息子が画家であったことを隠すようにしていたためもあって、

     よけいに彼の名は人々の記憶から消え去ってゆきます、、

     その作品も、何百枚も描かれたといいますが、何度も戦乱に遭遇し、

     現在残っているのは、40枚ほど、、

 

     さて、その彼、歳をとるにつれて、夜の場面を描くようになり、、

                  、、、、

 

        

                 from: wikipedia

        ヨセフの夢 製作年ははっきりしません、1640とか45年説も

             フランス・ナント美術館蔵  93×81

 

     マリアの懐妊は精霊によるものである、と、天使がキリストの父(ヨセフ)

     の夢の中で語っているところ、、

     直接、ロウソクの炎を描くことなく、その光で画面を構成していますが、

     光の当たり方は実際の様ではなく、新たに造られています、、

     天使がロウソクの手前に立っているのに、顔を照らす光は、

     すこし画面手前からのように描かれています、、

 

     そもそも、ロウソクの炎、キリストの顕在とかの象徴、

     生命とか、信仰の象徴でもあります、、

 

        もう一枚、

 

        

                                                 from: wikipedia

                            聖ヨセフ  ルーヴル美術館蔵  137×102

                    1642 or 1645年

 

        父・ヨセフは大工、彼が作っているのは十字架です、、

 

     

 

        ヨセフはイエスを見つめ、

          この視線、いとしい我が子にむける愛の目であるよりも、

          もうすこし違うものを表現しているようにも見えてしまいます、、

        イエスは父の目を見つめかえすことなく、

        口を少し開いて、なにかをしゃっべっているようですが、

        目は父の顔に向けられていません、、

                                         、、、

 

        

          もう一枚、

 

        

                     from:wikipedia

            生誕 フランス・レンヌ美術館蔵  76×91

                  1648−51 45−48年説も

 

       

              

       マリアの母アンナとマリア、生まれたばかりのイエス

       アンナの視線はイエスに向けられているようにも見えますが、

       どうも、あらぬところを見つめているような、、

       首をいくぶん傾けていますが、それもイエスから逆方向、

       画面手前に向けて、すこし引くように、、

                  、、、、

 

      

       もう一枚最後に

 

      

                                           from:salvastyle.com

                     羊飼いの礼賛 ルーブル美術館蔵 107×137cm 

 

       両脇にマリア(赤い服)とヨセフを配して、

       中に杖を持った羊飼いとミルク壺を持った女性、

       中央の人物は帽子に手をやって、笛のようなものを持っています、、

         杖は、武器にもなることから神から授けられた権力の象徴にもなり、

         羊飼いが持つという笛は、音楽、、音楽は神の栄光の賛美につながり、

         ミルク壺の乳は赤ん坊が最初に口にするのもで、豊穣のシンボル

         永遠の命をもあらわします、、

 

 

 

       この5人の人物、明らかにイエスを見ているようなのは、

       中央の笛吹と右端のヨセフ、、

       他の3名は、どうも視線が読めません、、

 

       そして、イエス、

       子羊は彼自身の象徴でもあります、

 

                

 

 

       すこし枚数を多く挙げすぎました、、

 

       ただ、どの作品にも共通してしまうのが、、

       それぞれに単独の個人として描かれていること、、

         、孤独なひとりの人間として、

       各個人のあいだの交流や連帯、一体感をあまり感じられないのは、

       私だけでしょうか、、

                、、、、

       

 

       ラ・トゥールが生きた時代、戦乱や疫病(ペストをはじめとする)で

       生まれた人の半数が20歳までに亡くなっていたとも言います、、

 

      

       そして、1652年1月、

       15日に妻を亡くし、22日に子供のひとり(従僕説もあり)を、

       30日には後を追うようにラ・トゥール自身も亡くなってしまいます、、

 

             、ペスト、、です、、

 

 

 

          

          さてさて、「死」が今よりもずっとずっと

          身近であった頃のお話でした、、

 

 

          今日はこのへんで、、

 

             

             参考文献

               以前からのものに加えて、

               田中英道「冬の闇 夜の画家ラ・トゥールとの対話」新潮社

               名画への旅12 絵のなかの時間 講談社

               世界美術大全集 西洋編17  バロック・2  小学館

       


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