死のありよう

   こんばんは、

   今回はまずこの図面から、、

     

              from:Basilica of St Denis

 

 

   サン・ドニ大聖堂、中央祭壇部付近の平面図です、、

   番号が打たれているのは、墓像の数々、、

   先回登場しましたアンリ2世とカトリーヌの着衣墓像が左上68番(3つ目の像)

   2番目の二人並んだ裸像がその下67番

   その下、62番は、この像のモデルともなった、ルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュ像

 

       

 

   右側72番は、当初この聖堂に埋葬されなかった、

   マリー・アントワネットとルイ16世像

   刑死後、二人の遺体はマドレーヌ墓地(現贖罪礼拝堂)に他の処刑者とともに

   埋葬されます、現在遺骨は移されてここの地下にあるようですが、

   本当に彼らのものかは、疑問があるとも、

 

       

 

   その後ろに見えているのが、64番、フランソワ1世とクロード・ド・フランス像

   アンリ2世の両親です、、

   一番最初に登場したルイ12世の娘が、クロード・ド・フランス

 

           

 

 

 

 

   さて、墓像はこれくらいにしてサン・ドニにすこし触れてみます、、

   まずは、ルーヴルにある一枚の作品から、

   作者は絞りきれないようで、、不詳、

         パリ議会のために描かれたようで、1449〜53年ころの製作とか、

                  226×270cm

 

    

                                from;Louvre

 

     中央部にキリスト磔刑図、左にマリアとマグダラのマリア、右に使徒ヨハネ、

     そのキリスト左背景はゴルゴダの丘、建っているのは聖墳墓教会か、

     そして、左手の二人の人物、、

 

      

                                       from:Flickriver

 

        左再登場人物、セント・ルイス、聖王ルイ(2011.7.1記)

          フランス王家紋章百合のマントをはおっています

        右は何度も登場してます、洗礼者ヨハネ

 

           

 

           面白い表現の、聖書に子羊

        背景には、セーヌ河、そして古いルーヴル宮、、

 

     さてそして右手は、、

 

      

 

       右手は、シャルルマーニュ(カール大帝)742-814

                      1165年、列聖、

         正義の剣と水晶玉を持っています、

         帽子はどうも東洋風?

 

     そして、中央にサン・ドニ、

     背景の丘は、彼が処刑されたモンマルトル、

       古代ローマ時代は、モンス・メルクリウス(Mons Mercurius)

       メルクリウス(マーキュリー・ヘルメス)の丘と呼ばれた聖地で

       あったようですが、彼が処刑された後、Mont des Martyrs

       (殉教者の丘)と名が変わり、現在の Montmartre に、、

 

      

       

                  from:scribe4haxan

 

        まだ、血が噴き出しています、、

        しかし、いくぶん右足を前に出して歩こうとしている姿勢、、

          後ろの二人は同じ時に殺された宗教者たち、

      

     

    さてさて、そもそものこのサン・ドニ大聖堂

    最初に建てたのは、聖ジュヌヴィエーブ(再登場)とか、

    そして、上のシャルrマーニュによって完成され、

    現在目にする修道院聖堂はシュジェールによって、1140年に建立され、

    聖王ルイによって、バシリカ部分を増築されます、、

 

      上記三人はそれぞれにかかわっています、

      しかし、シャルルマーニュの墓はここにはありません、、

              、、、、

 

 

      ひとつ、蛇足をのべるなら、

      このサン・ドニの行為、

      つまり首を持って歩くという動作、、

      まだまだ、他の殉教者の例があるらしく、、

      数をかぞえてゆけば、、50例にも及ばんとするとか、、

 

        さてもさても、、

 

 

 

 

        すでにそろそろ良き時間、、

        何らまとまりもなく書いてしまいました、、

        それでは、

        今日はこのへんで、

 

 

 

        今回新たに付け加える参考文献はありません、

 

 

 

    

      


死のかたち

   こんばんは、

   今回もある写真から、、

 

        

           from:Louvre               SPAZIO no.70

 

      アンリ2世(1519-59) (再登場2010.9.〜10 記)の槍試合での死をうけて、

      その妻、カトリーヌ・ド・メディシスの1561年の依頼により

      5年がかりでひとつの大理石から彫り上げた三美神像、

        作者はジェルマン・ピロン(1537-90)

        高さは、1,5mほど、ルーヴル蔵ですが、

 

        その付けられている題名が、、

          「アンリ2世の心臓記念碑」

          頭上の丸い器に、アンリ2世の心臓が入れられていました、、

          どうやら今は存在しないケレスティヌス会修道院聖堂(パリ)

          に保管されていたようです、、

 

    アンリ2世の身体の埋葬場所は、あの、パリ、サン・ドニ聖堂

        (何度も登場しています)、、

 

       当時フランスは分葬(2〜3分割)の習慣があり、

         十字軍遠征等の事情から生まれたようで、  

         傷みやすいイ内臓は死地、心臓は宗教的な場所、

         遺骨はサン・ドニというように、、

 

           この風習、ローマ・カトリックは禁止していましたが、、

 

               、、、

 

 

    さて、その奥さんの、カトリーヌ・ド・メディシス(1519-89)

    イタリア・フィレンツェ・メディチ家からフランスへ嫁いだ人(14歳時)ですが、、

    彼女生涯に3度、自らのお墓を造っていまして、、

      どの順番でこの3つの墓を登場させるかが、大変難しいのですが、、

      まずは、2番目に造った墓から、、

      作者は上の心臓記念碑と同じ、ピロン、

 

    

                                      

                    

                                                from:pinterest

     夫アンリ2世像は死後硬直によって、のけぞるような姿になっていますが、

     二人の肉体は、若々しく、、

     たとえばカトリーヌのポーズは、、

 

                 

                     from:wikipedia

      左右の手が異なりますが、彼女の故郷フィレンツェにある

      ボッティチェリのヴィーナスそっくり、、

      製作は1565から1570

               、、、、

 

     

     その最初に、彼女が作ったものは、ルーヴルにありまして、、

     1566年頃まで製作されていたようですが、

     作者の死によって未完成で終えられています、

 

  

                              from:w3.osaachivum.org

              ジローラモ・デラ・ロッビア(1488-1566)作

         この人フィレンツェ人でフランス移住組のひとり、

       依頼は、夫アンリの死後数年たってから、

          最初の「心臓記念碑」と同じころでしょうか、、

 

       当時フランスではまだ中世の名残で、「腐敗死骸像」が主流でした、

       先回の「死の勝利」とおなじ流れで、

       「メメント・モリ、死を想え」という風潮が色濃く残っています、、

                、、、、

 

       

 

    そして、最後のものがこちら、、

 

  

     

     作者は、またしてもピロン、

     年取ったカトリーヌの本来の姿、(2重顎になっています、、

        夫アンリ2世も同じように太らされています、、

     こちらもサン・ドニにあります、、

 

     製作依頼は彼女の死の6年ほど前(1583年?)、

     「死」の時点ではまだ完成していませんでした、

     完成は、彼女の死後1590年?

        この彼女の体型が本当の姿なら、

        さすがに最初の若々しいヴィーナス風のものに納まるのには

        気が引けたのでしょうか、、

 

        しかし、時代は、2013.2.19、に挙げました、

        彼女の息子の嫁・メアリー・スチュアート墓像とおなじように、

        この流行・風潮にあったようです、、

                、、、、

 

    

    さてさて、[死のかたち] として、どうしても登場してもらいたかったものたちを

    挙げてしまいました、、

    そもそも最初に遭遇したのは、

 

                         

 

           このあたりからだったでしょうか、

      デュ・コーロワ(1549−1609)作曲、

      「フランス王のためのレクイエム」1999年製作のCDジャケット、

        撮影角度が異なっているため分かりにくいですが、

        最初に挙げましたアンリ2世像です、、

 

           、、美しい死曲が流れます、、

 

 

       蛇足になりますが、、 面白いのは、このジャケット裏面、、

 

                        

                  

                            王の足の裏が全面に印刷されています、

 

                 、、、、

 

 

        、、さて、すでに よき時間、、それでは

          今日はこのへんで、、

 

 

            参考資料、先回からのものに引き続き

              小池寿子、「身体をめぐる断章」 SPAZIO NO,70

              ルーヴル美術館、ホームページ

              高階秀爾 「ルネサンスの光と闇」中公文庫 等々

 

 


ペスト 死の勝利

   こんばんは

   今回はまずシチリア島パレルモ州立美術館にあるフレスコ画から始めます、

 

    

               from: LA BOTTEGA DEL PITTORE

 

 

                    from: wikipedia 

     15世紀半ば頃描かれたようですが、作者は(諸説あって)不明、

     大きな作品で、600×642cm  人物がほぼ等身大で描かれ、

     「死の勝利」と題されています、

 

      中央、腰に矢と大鎌を帯び、左手に弓をもち、今まさにその矢を放ったという

      姿勢の死神?

 

      画面右上、まだ死の馬が至らない場所では音楽士などが登場して、

      命の象徴でもある泉(噴水)も見え、生の享受が描かれていますが、

      その下には、いましも死の矢を受けたばかりの人々が、

 

 

     

 

      馬の腹の下には、矢を受け死した人びと、

      教皇や皇帝、枢機卿、聖職者、学者、錬金術師の姿も、、

 

     

 

        画面左下は、死者を悼む人々や、死神?に手を合わしている人が

 

               

 

        上部、こちらを向いている二人はこの作品の制作者とも、、

 

 

 

   ここで、ひとつの文学作品から引用してみましょう

 

    「言っておくが、まず、神の子が肉体に結実してから1348の歳月を数えた時のこと、

    イタリアの美しい町々のなかにあってもひときわ秀でた花の都フィレンツェに、

    死の疫病ペストが襲いかかってきた。

    天の球体の運行のなせるわざか、あるいは私たちの罪業に怒りを覚えて神が

    死すべき人間たちに正義の裁きを下されたためか、その数年前に東方の各地に

    発生して、かの地において無数の人々の命を奪い、とどまるところを知らぬ勢いで、

    つぎつぎにその行き先を変え、やがては恐ろしいことに西洋へ向かって、それは

    ひろがってきた。

    これに対して人間の側にはろくな才知もなく、何の予防も甲斐がなく、もとより

    都市は特別の係官を任命して、彼らの手ですべての汚物を浄めたり、城壁の

    内部へ一切の患者の立ち入りを禁止したり、衛生を保つためのありとあらゆる

    処置を講じたり、加えてまた敬虔な願も一再ならずかけられ、行列も整然と

    組まれて信心深い人びとの群れがひたすら神への祈りを捧げたが、それにも

    かかわらず、前述した年の春早くには、身の毛もよだつばかりの苦患の効果が

    現れはじめ、目を覆うばかりの惨状を呈しだした。

    (中略)病気の初期の段階でまず男女とも鼠蹊部と脇の下に一種の腫瘍を

    生じ、これが林檎大に腫れあがるものもあれば鶏卵大のものもあって、患者に

    よって症状に多少の差こそあれ、一般にはこれがペストの瘤と呼び習わされた。

    そしていま述べたように、身体の二箇所から、死のペストの瘤はたちまちに

    全身にひろがって吹きだしてきた。

    その後の症状については、黒や鉛色の斑点を生じ、腕や腿や身体の他の部分

    にも、それらがさまざまに現れて、患者によっては大きく数の少ない場合もあれば、

    小さくて数の多い場合もあった。

    こうしてまず最初にペストの瘤を生じ、未来の死が確実になった兆候として、

    やがて斑点が現れれば、それはもう死そのものを意味した。

            ボッカッチョ(1313-75) 「デカメロン」 河島英昭訳 

                                  講談社文芸文庫 

 

                     

   この作品の完成が1351-3年頃といいますが、

   ちょうど同じころ、1352年、このボッカッチョと友人でもあったペトラルカ(1304−74)が

   著した「凱旋」という作品(全6編)で、その3編目に、、

   1348年、ペトラルカの最愛の人ラウラをペストで失った悲しみを歌っています、、

   この作品がひとつの大きな契機となって、上の絵画のような死を扱った作品群が

   ヨーロッパじゅうに広がってゆきます、、

 

     (ちなみにボッカッチョ自身も、父親をペストで亡くしています、)

 

 

   この二人、、、 

   

                                                       from: PensArti

     フィレンツェ フィリッポ・カルドゥッチ(1449−1520)の別荘

     壁を飾っている有名人たち、、

     画面右端のふたり、、

 

       

                                                   from: wikipedia                 

           ペトラルカ(左)と ボッカッチョ

          その左横にはダンテがいますが、、

      現在このフレスコ画は取られて、ウフィツィ美術館に展示されています、

       (ちなみにこれを描いた画家カスターニョ(1421-57)も

        ペストで亡くなっています)

                  、、、、

 

 

   ペスト、、そのもっとも古い記述を挙げるなら、どうやら「聖書」に行きつくらしく、

          旧約聖書 「サムエル記」  紀元前11世紀頃成立

 

     「そして主の手はアシドドびとの上にきびしく臨み、主は腫物をもってアシドドと

     その領域の人々を恐れさせ、また悩まされた。

     アシドドの人々は、このさまを見て言った、「イスラエルの神の箱を、われわれの

     所にとどめ置いてはならない。その神の手が、われわれと、われわれの神ダゴン

     の上にきびしく臨むからである、、、

 

        (イスラエルの神の箱は戦によってペリシテ人の手に奪われていました、、

         この箱は相談の上、金の腫物5つと金のねずみ5つとともに返還されます)

 

                      、、、、

 

 

 

   そして加えるなら、ペスト3大文学作品というものがあるようで、

   上のボッカッチョにつづいて、

     「ロビンソン・クルーソー」のデフォー(1660-1731)の「ペスト」

     A Journal of the Plague Year  1722年出版

 

     こんなふうに始まります、、

 

       それはたしか1664年の9月初旬のことであったと思う。たまたま隣近所の

       人たちと世間話をしている際に、私はふと、ペストがまたオランダにはやり

       だしたそうだ、という噂をちらっと耳にしたのだった。またはやりだした、と

       いうのは、その前年の1633年に、オランダは、この疫病のためひどい目に

       あっていたからである。ことにアムステルダムとロッテルダムはその中心地

       であった。なんでも、その時の話のようすでは、ある者は、その疫病はイタリア

       から入って来たといい、またある者は、いや、レヴァント地方から帰航した

       トルコ通いの商船隊で運ばれた貨物にくっついてはいって来たのだ、とも

       いった。いや、なにあれはカンディアからだという者もいたし、中には

       サイプラスからだという者もいた。

       しかし、どこから疫病がやってきたかはもう問題ではなかった。問題は、

       再び疫病がオランダにはやりだした、ということだった。これには誰も

       異存はなかった。

                        平井正穂訳 筑摩書房

 

      

     そして、アルベール・カミュ(1913-60) 「ペスト」 La Peste 1947年出版

     一連の前置きにつづいて、こう書きはじめられます、

 

       4月16日の朝、医師ベルナール・リウーは診療室から出かけようとして、

       階段口のまんなかで一匹の死んだ鼠につまづいた。咄嗟に、気にも留めず

       押しのけて、階段を降りた。しかし通りまで出て、その鼠がふだんいそうもない

       場所にいたという考えがふと浮かび、引っ返して門番に注意した。

                       宮崎嶺雄訳 新潮社

 

 

                  

                                                from:bol,com  オランダ語版

 

 

                     さてさて、よき時間になってまいりました、

          最後にデフォー「ペスト」の最後に書かれている詩篇を、、

 

 

              ロンドン疫癘(えきれい)に病みたり、

              時に1665年、

              鬼籍に入る者その数十万、

              されど、われ生きながらえてあり。

                        H・F・

 

 

            今日はこのへんで、、

        

 

              参考文献、先回からのものに続いて、

                世界美術の旅ガイド4、南イタリア、美術出版社

                小池寿子「屍体狩り」白水社

                村上陽一郎「ペスト大流行」岩波新書

 

    


夜の画家

   こんばんは、

   どんな風に話を続けてゆくのか、分からないままに始めてしまいました、、

 

        

                                               from: wahooart.com

         まずは一枚の絵から

              ヘラルト・ファン・ホントホルスト(1592-1656)

                              使徒トマスの疑い 1620年頃、プラド美術館像 130×100?

    そのトマスに関して、ある文章を引用してみましょう、、

 

     トマス(Thomas)は、<深み>というほどの意味である。あるいは、<二重の者>

     という意味で、ギリシア語のDidymos(ディデュモス)にあたる。あるいは<分割>

     もしくは<分離>を意味するthomos に由来する。彼が<深み>と言われるのは、

     神性の深奥をきわめたからであり、つまり、キリストが彼の問いに

     「わたしは道であり、真理であり、生命である」と答えられたからである。

 

     彼が<二重の者>と言われるのは、主の復活が真実であることを、

     他の人たちのようにただ眼で見るだけではなく、見るとともに手でさわって

     二重に確かめたからである。

 

     彼が<分割>もしくは<分離>と言われるのは、こころを世俗の愛から分かったから

     であり、また、復活されたキリストを信じる点でほかの使徒たちと意見が分かれた

     からである。あるいはまた、Thomas は、totus means つまり、

     <あまねくめぐり歩く人>という意味でもある。

 

     すなわち、神への愛と観想とにおいてあまねくめぐり歩いたのである。

     というのは、この神への愛を証明するとりわけ3つのことが、彼にそなわっていた

     からである。

     プロスペルは、『観想的生活について』の中でこう述べている。

     「神を愛することは、こころのなかで神についての観想を切に熱望し、罪を憎み、

     世俗を軽蔑すること以外のなんであろうか」と。

 

               ウォラギネ「黄金伝説」使徒トマス、冒頭

 

 

     

    たとえば、「わたしは道であり‥‥」というキリストの答えを引き出した

    トマスの質問については、、

    そもそもその質問が発せられたのは、「最後の晩餐」のとき、

    「わたしを裏切ろうとしているものがいる」という言葉をイエスが呟き、

    裏切り者のユダがその場を去ってから、

    イエスはその自らの死を予測し、先に逝くことを暗示し、

 

      「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして行って、

      場所が用意できたら、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。

      わたしのおる所に、あなたがたも居らせるためである。わたしがどこへ

      行くのか、その道はあなたがたにはわかっている。」

      トマスがイエスに言った、

      「主よ、どこへおいでになるのか、わたしにはわかりません。

      どうしてその道がわかるでしょう」

      イエスは彼にいわれた。

      「わたしは道であり、真理であり、命である。

      だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

 

                新約聖書ヨハネ福音書、14章

                      、、、、

 

 

    もうひとつ、トマスに関する逸話を聖書から拾うと、、

    同じヨハネ福音書11章、ラザロを蘇らすためにもう一度ユダヤに行きたいと

    弟子たちに言ったとき、弟子たちは「ユダヤ人たちが、さきほどもあなたを

    石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」と反対したとき、

    トマスひとりが、

 

      「わたしたちも行って、先生とともに死のうではないか」

 

            と、みなを鼓舞します、、

            この言葉にイエスがどれほど救われているか、、、

                   、、、、

 

 

   さて、使徒トマスについて少し見てきましたが、

   そろそろ今日の本題に入ってゆかなければならないようです、、、

   まずは、上の2番目の文章、わたしは「道であり、、」に続く部分から、、

 

      だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(つづいて)

      もしあなたがたがわたしを知っていたならば、私の父をも知ったであろう。

      しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。

      ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。

      そうして下されば、わたしたちは満足します」。

      イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに

      わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。

      どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。

      わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。

      わたしがあなたに話している言葉は、自分から話しているのではない。

      父がわたしの内におられて、みわざをなさっているのである。

      わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。

 

           そう、イエスにたしなめられます、、

           その「ピリポ」、先回と同じシリーズで、ラ・トゥールが描いています、、

 

         

                                                    from:  wikipedia

          使徒ピリポ(フィリポ) クライスラー美術館 アメリカ

                                                    63×52

           、、先回のトマスの肖像とは打って変わって、

             内向的・内省的な作品、、

 

 

     今日の本題はこの画家を、と思っているのですが、

 

     ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593−1652)

     パン屋の息子として生まれ、当時のフランス国王ルイ13世付の画家にまで

     登りつめた人、彼の息子は貴族にまでなっています、、

     その息子が画家であったことを隠すようにしていたためもあって、

     よけいに彼の名は人々の記憶から消え去ってゆきます、、

     その作品も、何百枚も描かれたといいますが、何度も戦乱に遭遇し、

     現在残っているのは、40枚ほど、、

 

     さて、その彼、歳をとるにつれて、夜の場面を描くようになり、、

                  、、、、

 

        

                 from: wikipedia

        ヨセフの夢 製作年ははっきりしません、1640とか45年説も

             フランス・ナント美術館蔵  93×81

 

     マリアの懐妊は精霊によるものである、と、天使がキリストの父(ヨセフ)

     の夢の中で語っているところ、、

     直接、ロウソクの炎を描くことなく、その光で画面を構成していますが、

     光の当たり方は実際の様ではなく、新たに造られています、、

     天使がロウソクの手前に立っているのに、顔を照らす光は、

     すこし画面手前からのように描かれています、、

 

     そもそも、ロウソクの炎、キリストの顕在とかの象徴、

     生命とか、信仰の象徴でもあります、、

 

        もう一枚、

 

        

                                                 from: wikipedia

                            聖ヨセフ  ルーヴル美術館蔵  137×102

                    1642 or 1645年

 

        父・ヨセフは大工、彼が作っているのは十字架です、、

 

     

 

        ヨセフはイエスを見つめ、

          この視線、いとしい我が子にむける愛の目であるよりも、

          もうすこし違うものを表現しているようにも見えてしまいます、、

        イエスは父の目を見つめかえすことなく、

        口を少し開いて、なにかをしゃっべっているようですが、

        目は父の顔に向けられていません、、

                                         、、、

 

        

          もう一枚、

 

        

                     from:wikipedia

            生誕 フランス・レンヌ美術館蔵  76×91

                  1648−51 45−48年説も

 

       

              

       マリアの母アンナとマリア、生まれたばかりのイエス

       アンナの視線はイエスに向けられているようにも見えますが、

       どうも、あらぬところを見つめているような、、

       首をいくぶん傾けていますが、それもイエスから逆方向、

       画面手前に向けて、すこし引くように、、

                  、、、、

 

      

       もう一枚最後に

 

      

                                           from:salvastyle.com

                     羊飼いの礼賛 ルーブル美術館蔵 107×137cm 

 

       両脇にマリア(赤い服)とヨセフを配して、

       中に杖を持った羊飼いとミルク壺を持った女性、

       中央の人物は帽子に手をやって、笛のようなものを持っています、、

         杖は、武器にもなることから神から授けられた権力の象徴にもなり、

         羊飼いが持つという笛は、音楽、、音楽は神の栄光の賛美につながり、

         ミルク壺の乳は赤ん坊が最初に口にするのもで、豊穣のシンボル

         永遠の命をもあらわします、、

 

 

 

       この5人の人物、明らかにイエスを見ているようなのは、

       中央の笛吹と右端のヨセフ、、

       他の3名は、どうも視線が読めません、、

 

       そして、イエス、

       子羊は彼自身の象徴でもあります、

 

                

 

 

       すこし枚数を多く挙げすぎました、、

 

       ただ、どの作品にも共通してしまうのが、、

       それぞれに単独の個人として描かれていること、、

         、孤独なひとりの人間として、

       各個人のあいだの交流や連帯、一体感をあまり感じられないのは、

       私だけでしょうか、、

                、、、、

       

 

       ラ・トゥールが生きた時代、戦乱や疫病(ペストをはじめとする)で

       生まれた人の半数が20歳までに亡くなっていたとも言います、、

 

      

       そして、1652年1月、

       15日に妻を亡くし、22日に子供のひとり(従僕説もあり)を、

       30日には後を追うようにラ・トゥール自身も亡くなってしまいます、、

 

             、ペスト、、です、、

 

 

 

          

          さてさて、「死」が今よりもずっとずっと

          身近であった頃のお話でした、、

 

 

          今日はこのへんで、、

 

             

             参考文献

               以前からのものに加えて、

               田中英道「冬の闇 夜の画家ラ・トゥールとの対話」新潮社

               名画への旅12 絵のなかの時間 講談社

               世界美術大全集 西洋編17  バロック・2  小学館

       


マリアの腰帯

   こんばんは、

   結構、時間が空いてしまいました、、

     それでも、もうすこし聖母マリアを続けます、、

 

     まずは、再登場(2012.3.15)のフレスコ画、

 

       

                                from: ART PRINTS ON DEMAND COM

 

       フィリッポ・リッピ(1406-69)の「サロメ」

        片足で立ってダンスを踊っています、、

        思うに数多ある「サロメ」のなかでも最も可憐なもの??

 

   さて、このフレスコ画がある、プラートの大聖堂、

 

      

                                   from:Wikipedia

 

         ここに、もうひとつお宝がありまして、、

 

            

                                 from: STAMP Tscana

 

    ケースのなかに、帯(布製ベルト)のようなものが入っています、

    14世紀頃にこの街にもたらされた、聖母マリアの腰帯です、

    

      この由来は、、

 

      

                  from: Wikipedia

 

        パルマ・ヴェッキョ(1480-1528)

                 「聖母被昇天」1512-14年頃、ヴェネツィア・アカデミア美術館

 

     天に昇ってゆくマリアの手元に紐のようなものが、、

     これが、マリアの腰帯になります、、

 

      この話の主人公はキリスト12人弟子のひとり、聖トマス、、

      彼はインド?へ宣教していたため聖母の昇天に間に合わず、、

        彼、キリスト復活の際も、実際にイエスと対面し、

        磔刑時についた槍痕を見るまではそれを信じなかった

        という経緯がありまして、(2014.4.4.記)

 

          新約聖書ヨハネ福音書20.25

 

           「12弟子のひとりで、デドモとよばれているトマスは、イエスが

           こられとき(復活して)、彼らと一緒にいなかった。他の弟子たちが

           彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに

           言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとに

           さしいれ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、

           決して信じない」。

           8日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒に

           いた、戸はみな閉ざされていたが、イエスが入ってこられ、中に立って

           「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指を

           ここにつけて、わたしの手をみなさい。手をのばしてわたしのわきに

           さし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。

           トマスはイエスに答えていった。「わが主よ、わが神よ」。イエスは

           彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか、見ないで

           信ずるものは、さいわいである」。

 

        それゆえ「疑い深いトマス」という呼び名まであります、、

 

      このことを思ったマリアが、トマスのために腰帯を天から落とす、

      というもの、、

 

         

 

      このトマスについては、謎が多く(あまり資料がなく)、

      インドで建築家と偽って、王に仕え、大金を手にして、

      それをことごとく貧しい人々に喜捨し、、

      最後は異教徒に槍・剣で刺されて殉教したとか、、

                                             、、、、

 

 

    さて、この「トマス」を描いた ラ・トゥール(1593-1652)の作品が2枚ありまして、、

 

      

          東京、国立西洋美術館蔵 1623年頃作  

                                          from:wikiart

 

          もう一枚は ルーヴルに、、

 

      

          1632−35年頃作  from:wikimedia commons

 

          二人ともが手にする槍、

          自らもそれに刺しつらぬかれ、

          イエスの傷痕をも思い浮かばせます、、

 

 

     ルネサンス期の甘美さからはほど遠く、、

     斜め上からの視線と、すさまじいまでの描写力で見るものを圧倒します、

     このふたりの眼差しは、何に向けられているのでしょう、、

     「トマス」という人物をとおして、画家は何を表現しようとしたのでしょう、

                、、、、

 

       この画家、今世紀になるまで、まったく忘れられていまして、

                、、、、

 

       いまでは、彼の名が存在しなかったこのなど、

       考えられもしないのですが、、

                、、、、

 

 

 

    

       さてさて、すでに時間がせまっています、、

       何もかもが途中ですが、「つづく」としまして

       今日はこのへんで、、

 

     

           参考文献

             以前からのものに加えて、

             ウォラギネ「黄金伝説全4巻」平凡社

             高階秀爾「フランス絵画史」講談社学術文庫

      

 

    


回勅 聖母マリア

   こんばんは、

   すこし続けてみましょう、、

         ひとつの冊子の表紙から、、

        

                

                   from:ANTIQBOOK

 

          先回からの、ピウス9世の回勅「無原罪の御宿り

              フランス語版です、

 

    このなかに、、

 

     口にしてはならないほど神聖な神は、最初から、この世が始まる以前から

     彼のひとり子イエス・キリストのために、ひとりの母親を選んだ。

     そして至福に満ちたメシア到来のときが来ると、その母親の胎内から

     人間の姿となって、この世に生まれることが出来るような手はずを整えた。

     神はこの母親にあらゆる被造物に対するよりもずっと多くの愛を注いだので

     この上ない好意を特別な方法によって彼女に示した。

     それゆえ神は天国のあらゆる恩寵をご自分の宝のなかから取り出して、

     どのような天使や聖人に対するよりもずっと多くのもので彼女を満した。

     そして、それとともに、彼女をあらゆる罪の汚れからたえず守り、

     この上もなく完璧なものとした。

     彼女はこれほどまでに純真さと神聖さで満ちあふれているので、神のもので

     彼女以上偉大な存在を人間に宿すことが出来ず、神以外には誰も心のなかに

     彼女を宿すことはできない。そして彼女がこれ以上ないほど神聖な光で

     つねに輝いており、原罪の汚れから完全に守られいなければならなかったのは

     かって人類を罪に陥れた蛇に対して申し分のない勝利をおさめるためだった。

     (略)人類の救い主であるイエス・キリストのために全能なる神の特別な

     好意と恩寵によって聖処女マリアが受胎される瞬間にあらゆる原罪の汚れから

     守られていたという教義は神によって啓示されたものであり、全信者が

     断固として信じなければならないということを我々は宣言し表明し定義する。

             1854年12月8日

 

 

   これと並んで言及される、回勅「聖母の被昇天

   すこし引用してみますと、、

 

           

                                       from:,운석장면기념관

 

                   こちらは英語版

 

     しかしながら、我々の時代には、神の母である聖母マリアの肉体が天国へ

     のぼったという「聖母被昇天」の特権をあきらかにするという課題が残され

     ていた。(略)

     かってこの特権は、不朽の名声を残した我々の先任者であるピウス9世

     神の母の「無原罪の御宿り」という教義を厳かに定義したとき、新しい光で

     輝いた。実際、このふたつの特権はきわめて緊密に結びついている。

     イエス・キリストはご自身の死によって、罪と死に打ち勝った。また洗礼に

     よって超自然的に生まれ変わった者は、イエス・キリストと同じように罪と

     死に打ち勝つのである。

     しかし一般的な法則として、この世の最後が訪れるときまで、神は正しい

     人々が死に対して完全な勝利をおさめることをお認めになっていない。

     それゆえ正しい人々の肉体でさえも死後には腐り、この世が終わりを告げる

     ときになってはじめて、栄光に満ちた自分たちの魂と結びつくのである。

     ところが神は聖処女マリアがこの普遍的な法則から免れることをお望みに

     なった。例外的な特権を得た聖母マリアは、「無原罪の御宿り」によって

     罪に打ち勝ったので、墓の中で腐敗する法則にもしたがうべきではない。

     (略)

     高貴なる神の母が神の子イエス・キリストときわめて緊密に結びつき、

     たえず運命をともにしている様子を我々のまえに提示する。それゆえ、

     イエス・キリストを身ごもり、彼を生み、彼に乳を含ませ、彼を腕の中に抱き、

     胸に引き寄せた女性を、この世で生命を終えたあと、精神的には無理だと

     しても少なくとも肉体的に彼と引き離したままでおくのは、ほとんど不可能だと

     思われる。

     なぜならわれらのあがない主はマリアの息子イエス・キリストであり、非の打ち

     所がない神の法則の守り手である彼が、永遠の父と同様にこの上なく愛する

     母を、尊敬しないでいることなどできなかったからである。彼は彼女を最大限の

     栄誉で飾ることができたので、彼女が墓の中で腐らないように守ったことだろう。

     それゆえ、これが彼によって実際に行われた出来事であることを信じなければ

     ならない。(略)

     したがって、永遠の処女である汚れなき神の母マリアが、この世での生涯を

     終えたときに魂も肉体も天の栄光にあげられたことは、神によって啓示された

     教義であるということを、我々は宣言し、表明し、定義する。

                       1950年11月1日

                          ピウス12世

 

     

   このふたつの回勅・教義、

   そもそもは民間信仰として古くから(古代世界)から信じられていたのにもかかわらず、

   最近になって、こういうかたちで、あらためてさし示されています、

 

 

   1854年の「無原罪の御宿り」では、

   当時ヨーロッパをとりまいていた「共和国思想」、

     つまり、宗教や民族の範疇ではなく、同じところに住むというつながりをもとにして

     国家を形成してゆくという考え、

   この考えに対抗して、そもそもの宗教に眼を向けさせようとしたもの、、

 

   しかし、先回も触れましたが、イタリアは統一され、法王ピウス9世は

   領土も世俗的主権も無くしてしまいます、、

   

   共和国思想をもつ人々からは反感の矛先となりますが、

   それに反して、宗教者としてのカリスマ性はおのずから高まってゆきます、、

   そして、世俗権力を失うまぎわに、1870年、

   宗教上の絶対的権力とでもいうべき「教皇首位説と教皇不可謬説」を手に入れます、

 

                  、、、、

 

 

   そして、1950年の「聖母マリアの被昇天

      1946年のチャーチルの「鉄のカーテン」

      1949年、「北大西洋条約機構」

      反共産主義や、反軍事主義の意味合いも含んで、、、

 

                  、、、、

 

 

   さてさて、すこし殺伐としてきましたか、、

   1505年から10年にかけて製作されたという祭壇彫刻に最後に登場してもらいましょう、

   作者はリーメンシュナイダー(1460年頃 - 1531年)

   ドイツ、、ニュルンベルクとハイデルベルクの中間ポイント、

   クレクリンゲンの巡礼聖堂にあります、

 

    

                                       from: Christ Bearers

 

           天使たちによって昇ってゆく聖母、、

 

     

                                                from: Wikipedia

 

             それでは、、

             今日はこのへんで、、

 

 

                                    参考文献は先回の分に加えて、

                シルヴィー・バルネイ「聖母マリア」創元社

 

   


ヴァチカンの囚人

   こんばんは、

   すこし話を続けていこうと思っていますが、

   最近、このブログページ、とんとアクセス回数が減少していまして、

   コピーされているページに完敗している状態です、、

   しかし、トータルの数字で考えれば、あまり変化していないのかもしれません、、

      読まれる方としては、どのページでアクセスしても関係ないわけですから、、

      まあ、しっかり内容を充実させることを、考えていれば良いのでしょう、、

             、、、、

 

   というわけで、まずは再登場の教会聖堂から入っていきます、、

 

      

     

      ローマ、 サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂

            (写真はウィキペディアより)

        2010年7月頃にすこし触れました、、

    全世界の聖母マリアに捧げられた教会のトップにあるような存在です、、

 

    この建物の、、祭壇の前に、、

 

      

                photo: Aleksandr Reznik

 

        半地下のようになったところ

        祭壇に向けて手を合わせている画面下の石像、、

        先回登場しました、ピウス9世です、

        (1792-1878、教皇在位1846-1878)

 

    聖母マリアの無原罪の御宿り(マリアが母アンナの胎内に宿った時から

    原罪を免れていたとする)を取決めた人、、

    、、マリアに捧げられた教会の祭壇に向け祈っているわけですが、、

 

 

    ピウス9世、「宗教の近代化問題」と、まともにぶちあたった人、

    そもそも領有していた、ローマ教皇領を最終的にすべて失ってしまった人、、

 

       1870年9月19日、イタリア王国軍はアウレりアヌス城壁に到着

           ローマは完全に包囲され、教皇配下の兵士たちは抵抗したものの

           翌20日にはピア門から市内に入場します、、

       10月2日、ローマでイタリア王国への合併を問う住民投票が行われ、

       9日イタリア王国にローマは併合されます、

       翌71年7月2日、イタリア王国首都はフィレンツェからローマに遷都、、

 

 

         ピウス9世、当初教皇に選ばれた時点では、

         イタリアをはじめ、全ヨーロッパ的に大人気を博していました、

         (その、前任教皇と比較しての自由主義的傾向のため、)

         しかし、イタリア本土の共和国化と、対オーストリア戦争に反対の立場を

         とったため、一挙に支持は落下、、苦しい立場に立たされます、、

 

 

       併合後は、イタリア政府から、ヴァチカンのみの領有を勧められますが、

       それをも断って、イタリア王国と断交、対立の立場を貫きます、、

 

 

    先回も少し触れました、1870年第一回ヴァチカン公会議で採決された、

    「ローマ法王の無謬性」と書きましたが、

    正式には「教皇首位説と教皇不可謬説」、、この採決が1870年7月

       教皇不可謬説:信仰および道徳に関する事柄について教皇座から

       厳かに宣言する場合、その決定は精霊の導きに基づくものとなるため、

       正しく決して誤りえない、というもの、

 

 

    ローマ併合後は、自らを「ヴァチカンの囚人」と名のり、

    国王や政府役人を破門に処し、カトリック信徒の政治(選挙等)参加を禁じる教令

    「ノン・エクスペディット」を出したりもします、、

 

    そんな教皇、 

    1878年2月7日死去、

    その不人気さゆえ、葬儀は延ばされて3年後の7月12日に行われますが、

    反感を持つ人々によって、葬列に泥を投げ込まれ、危うく棺をテヴェレ川に

    投げ込まれようとまでされます、、

              、、、、

 

 

      さて、そのお墓ですが、、自らの意志により、、

 

       

                                     photo:The Benedict Forum

 

      ヴァチカンの地下墓ではなく、

      こちらも再登場、サン・ロレンツォ・レ・ムーラ教会に納められています、

      自らを、虐殺された殉教聖者ラウレンティウスにたとえての行為とか、、

                      (2010年7月記)

        

 

    

      ひとつ補足するなら、この教皇、秀吉により長崎で殉教した26人を

      列聖した人でもあります、

               (1862年、文久2年のこと)

 

 

      もう一つ付け加えておきましょうか、

      このピウス9世、その在位期間が31年7か月間になりますが、

      この数字、歴史上の最長記録になります、、

         ちなみに、逆の最短期間記録は、13日間、というウルバヌス7世

         (1521−1590)、この1590年の9月15日から27日までの在位、

         69歳で亡くなっていますが、教皇になるのが遅すぎた?

         といいますか、、死因はあのマラリア、、

           (マラリアについては2012.5.18に触れています)

  

       在位期間は長くなっていますが、世俗の世界に深く絶望し、

       おそらくは心鎮まることのない日々だったとも思われます、、

 

      

                  

                     Terri Batler photography

 

 

          さてさて、とりとめもなく書いてしまいました、、

          それでは、今日はこのへんで、、

 

 

              参考文献:

                松本佐保「バチカン近現代史」中公新書

              先回から引き続くものとして、、

                竹下節子「聖者の宇宙」中公新書

                    「聖母マリア」講談社選書メチエ

                植田重雄「聖母マリア」岩波新書

                山形孝夫「聖母マリア崇拝の謎」河出ブックス

              

                ミシェル・フイエ「キリスト教シンボル事典」白水社

                柳宗玄・中森義宗編「キリスト教美術図典」吉川弘文館

                        ほか

  

 

 

 


原罪、無原罪、、

   こんばんは、

   話を続けなくてはと思ってはいるのですが、、

   まずは、一枚の作品から、、

 

       

 

          ベラスケス(1599-1660) 無原罪の御宿り 1618年 

        135×101,6cm  ロンドン、ナショナル・ギャラリー 

             (注)ウィキペディア 同題 よりの画像、

 

    先回の、スルバラン(1598-1664)の作品より遡ること十数年のもの、、

    こちらは球形の月?の上に乗った聖母マリア、

    頭部には12の星が描かれ、足元には永遠の生命を象徴する噴水?

            先回のスルバランは地上が昼だったのに比べ、こちらはまったくの夜景、、

 

      この月の上の女性、

      もとをただせば、新約聖書のなかの最終聖典、

      「ヨハネ黙示録」(成立・1世紀末頃?)のなかに、

      

         「また天に大きなしるしが現れた、

          一人の女が身に太陽をまとい月を足の下に

          頭には12の星の冠をかぶっていた、、、

 

 

      もちろんこれは、聖母マリアについて書かれたものではありません、

      世界の終わりについて書かれた「黙示録」その中の一場面ですが、

      これが、聖母マリアのイメージと重なっています、、 

                 、、、、

 

 

    さて、この聖母マリア、

    彼女についての、宗教上の取り決め(教義)がいくつかありまして、、

 

    まず第一に、先回述べました、神の母(テオトコス)とした教義、

       431年に、エフェソスの会議で決議されたもの、、

 

 

    第二は、649年、ラテラノ公会議で正式に決められた、

        「マリアの処女性」に関するもの、

        処女懐胎、、夫ヨセフと交わることなしにキリストを身籠ったこと、

 

        これについて最初に書かれたのは、 マタイ福音書 1章18節、

          「母マリアはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に

          精霊によって身重になった、、

        ルカ 1章28節には、

          「6か月目に、御使いガブリエルが、神からつかわされて、ナザレという

          ガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出である

          ヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリアといった、

          「めぐまれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。

          この言葉にマリアはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事で

          あろうかと、思いめぐらしていた。すると御使いが言った、

          「恐れるな、マリアよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。

          見よ、あなたはみごもって男の子を生むでしょう。その子をイエスと

          名づけなさい、彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられる

          でしょう。そして主なる神は彼にダビデの王座をお与えになり、彼は

          とこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。

          そこでマリアは御使いにいった。「どうして、そんなことがあり得ましょうか。

          わたしにはまだ夫がありませんのに」。御使いが答えていった、

          「精霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。

          それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられる

          でしょう。(中略)神には、なんでもできないことはありません」。

          そこでマリアが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり

          この身に成りますますように」。そして御使いは彼女から離れていった。

                    、、、、

 

 

    そして、第三の教義が1854年、ピウス9世によって宣言された

        「無原罪の御宿り

        聖母マリアはその母アンナの胎内にやどった時から、

        原罪(男女の交わりにより続いてゆくアダムとイブの神に背いた罪)から

        まぬがれている、というもの、、

 

        この教義は、最も無理があり、古来論議の対象とされ、

        1644年のローマ異端審問条例では、「無原罪の御宿り」

          Immaculata Conceptio

        という言葉の入ったすべての文書の没収を命じていたりもします、、

                    、、、、

 

 

    最後、四つ目が、1950年ピウス12世(再登場、2013,4記)によって定められた、

        「マリアの被昇天

        マリアの生涯の最後に肉体と霊魂をともなって天井に上げられた

        というもの、、

 

        これには、4つの意味合いが含まれるようですが、

 

        1.マリアがその神への従順さによって、イブの犯した罪

          (神の言葉に背くという)を購った、、

        2.イエスを宿した肉体を死によって腐らせるのはよろしくないという考え、

        3.イエスが天から人間界に降りてきたことに対して、マリアが逆に天へ

          上げられるという、対称性・互換性の認識、  

        4.天上の世界の男女両性性

          天井に女性的華やかさを付加する、、

 

 

        この教義宣言が行われたのは、

        1870年の第一回ヴァチカン公会議での採決された「ローマ法王の無謬性」

        (法王判断の、公会議決議より以上の優越性をもたせるもの)

        その決定後の、法王による最初の行使として、注目をあびたといいます、、

                   、、、、

 

 

 

    これらの教義、民間の信仰では、古くから行き渡っていましたが、 

    正式なカトリック教義としては、このように生まれたました、、

    しかし、これはあくまでローマ・カトリックでのお話、ギリシア正教や

    プロテスタントでは扱いが異なります、、

 

 

 

         さてさて、はたして何を書こうとしたのでしょうか、、

         今、ほんとうに時間がありません、、

 

           、、ほんとうに、、

 

         参考文献も挙げてゆかないといけないのですが、、

 

         、、、今日はこのへんで、、

 

 


無原罪の御宿り

   こんばんは、

   今回はどうもうまく頭が纏まってくれません、そのための時間もなく、、、

      しかし、すでに日がどんどん過ぎていってしまうので、

      強引に書き始めてゆきます、、

 

      

 

        再々登場?ヴェロネーゼカナの婚宴」ルーブル美術館、

                  2014.10.31記

 

 

    この場面を、まずは、「新約聖書、ヨハネ福音書 第2章」から

 

      「それから3日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母が

       そこにいた。イエスも弟子たちも婚礼に招かれた。

       すると宴会の最中に酒が足りなくなったので、母がイエスに言う、

       「お酒がなくなりました。」 イエスが言われる、「女の方”放っておいて

       下さい。” 私の栄光を示す時はまだ来ておりません。」

       母は召使たちに言う、「”なんでもこの方の言われるとおりにして下さい。”」

       そこに、ユダヤ人の清めの儀式のために、石の水瓶が6つ置いてあった。

       いずれも2、3メトレタ(80〜120ℓ)入りてあった。

       イエスは召使たちに言われる、「水瓶に水をいっぱい入れよ。」口まで入れると、

       彼らに言われる、「さあ汲んで、宴会長に持ってゆきなさい。」

       宴会長は酒になった水をなめてみて、---かれはその訳を知らなかったが、

       水を汲んだ召使たちは知っていた。---宴会長は花婿をよんで言う、

       「だれでも初めに良い酒を出し、酔いがまわったところに悪いのを

       出すのに、あなたは、よく今まで良い酒をとっておいたものだ。」

       イエスはこの最初の徴(奇跡)をガラリヤのカナで行って、神の子たる

       栄光をお現わしになった。弟子たちが彼を信じた。

                       福音書 塚本虎二訳 岩波文庫   

 

               

 

           ほぼ中央に描かれている、イエスとマリア、、

                             (注)パオロ・ヴェロネーゼ 主要作品の解説と画像・壁紙 より

 

     イエスは母マリアを「女の方よ」と呼びかけています、

     たとえば、日本聖書協会の訳では、「婦人よ」と呼びかけ、

 

        「あなたは、私となんの係わりがありますか、私の時は、

         まだきていません」

            と、書かれています、、

            聖書は本来記されたヘブライ語からギリシア語、そしてラテン語と

            訳されてゆくあいだに、いくぶんかの改変がどうしても

            生じてしまったと言われます、、

 

      いずれにしたところで、この場面でのイエスと母マリアの関係性は、

      複雑です、、

      すこし強引にイエスに奇跡を要求するマリア、

      それに対し、しぶしぶそれを行うイエス、、、

                     、、、、

 

 

   もうひとつの場面を引用してみましょうか、、

   イエスの最後の時、、おなじく「ヨハネ福音書」からです、、

 

       イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロバの妻マリアとが

       たたずんでいた。イエスはその母と愛弟子とがそばに立っているのを

       ごらんになって、母にいわれた、「婦人よごらんなさい。これはあなたの

       子です。」それからこの弟子に言われた。「ごらんなさい。これはあなたの

       母です。」その時以来、この弟子はこの弟子は、イエスの母を自分の家に

       ひきとった。

                (岩波文庫版では、「女の方よ」です

       

           4つの福音書のなかで、イエスの死に母マリアが立ち会ったと

           書かれているのは、このヨハネ福音書のみ、

           残りの3つには、「母」という記述はこの場面には見えません、、

       

 

           先回も触れましたが、

           母マリアという存在を聖書の中にさがしても、

           思うように現れてはくれません、

 

                     、、、、

 

 

   さて、そろそろ本題に入ってゆかねばなりませんが、

   まずは、一枚の作品から、、

 

         

 

       再登場画家、スルバラン(1598-1664)  無原罪の御宿り 128×89

                                      1630年  マドリッド プラド美術館

             wikipedia Fracisco de Zurubaran より

 

      月の上にのった聖母マリア

      まわりの雲の切れ間からは、それぞれ天国を表すものが見えます、

 

        左上から、天国の門?、あいだに星が見えて、その下は殿堂のようなもの、

        その下には、また星が、

        右上には、天国への階段、聖遺物を納める器に、、その下は?

 

        地上には、スルバランが活躍したセビリアの町並みと行きかう帆船、、

        

        マリアの頭の周りの星が10個描かれていますが、

        本来は12個のもの、隠れている部分があって、、

        それもあってか、残りの二つを別に描いています、、

 

          12は世界を表す数字、

          12ヶ月、キリストの12人弟子、、等々、、

 

        そして、月は、太陽のイエス・キリストと対比しての聖母マリアを

        象徴するものでもあり、教会を示すものでもあります、、

 

                    、、、、

 

 

    

             さてさて、すでに時間が迫っています、、

             本題に入るまえですが、、

             「つづく」とさせていただきます、

 

             今日はこのへんで、、

 

 

                             


エフェソス、、聖母マリア

   こんばんは、

   すこし話を続けようとは思うのですが、、

     「夢」からは離れてしまいそうな、、

 

       まずは一枚の画像から、、

    

 

       パリ、ノートルダム(われらが貴婦人の意・聖母マリア)大聖堂、

       正面左手エントランス上、アーチ部分のレリーフ

 

    横たわっているのは、聖母マリア

    天使たちが天上へまさに運ぼうとしているところ、

 

        いわゆる、聖母マリアの昇天、

 

    画像が切れていますが、キリストの12人の弟子たちが周りを囲んでいます、、

    ただし、歴史上こういう場面はおそらくなかったであろうと、

               ( 12人揃うことは、、

 

 

 

    さて、その「マリア」の死亡した場所が、先回も登場した「エフェソス」、、

           (エルサレム説もありますが、、

 

      

 

         位置関係のため地図を付けてみますが、

 

         たとえば、紀元1年頃の都市人口

 

            ローマ      100万

            ベルガモン    16万

            エフェソス     20万

            アンティオキア   27万

            エルサレム     10万

            アレキサンドリア   40万

     

                というデータもあります、、

 

    そのエフェソスで亡くなった、聖母マリア、、

    彼女についての記録は当初あまりにも少なく、、

    新約聖書のなかの、キリストの言動を示した4つの福音書、

 

            マルコ  紀元65−80頃成立  ローマにて執筆?

            マタイ  85年頃(70-90)    パレスチナかシリアにて?

            ルカ   1世紀から2世紀にかけて(70-90)  ギリシア?

            ヨハネ  1世紀末(90-120・130)   エフェソス

 

      その古くなればなるほどに、逆に記録は少なくなります、、

      本来父性重視のキリスト教で、彼女の存在は

      当初ほとんど顧みられませんでした、、

 

      たとえば、マルコ福音書には、イエスのこんな言葉が、、

        母がイエスを訪ねてきていると知らされた時、

        「私の母とはだれのことか」

        「神の御心を行うものは誰でも私の母なのである」

                   と答えています、、

 

      これが、最後のヨハネ福音書では、

      たとえば、カナの婚礼の場面で、イエスは最初の奇跡、

      水をワインに変えるということを行なっていますが

      これを指図したのがマリアという設定、、

      そしてイエスの受難(最後)にも立ち会っています、、

 

                 、、、、

 

 

    話をすこし飛ばしますが、

    古代世界の七不思議というものがあります、、

 

           ギザの大ピラミッド

           バビロンの空中庭園

           エフェソスのアルテミス神殿

           オリンピアのゼウス像

           ハリカルナッソスのマウソロス霊廟

           ロードス島の巨像

           アレキサンドリアの大灯台

 

               いくつかすでに登場したものもありますが、

 

      エフェソスのアルテミス神殿

 

       先回登場しましたアルテミドロス、

       そのうちの二人がエフェソス出身でしたが、

       そもそも、エフェソスのいわゆるご当地神様がアルテミスで、

       今はほとんど残っていませんが、そこには巨大神殿が建てられていました、、

 

            諸説あるようですが、あのプリニウスによると、

            神殿広さは、縦115m、横55m、  

              高さ18mの巨大柱が127本も林立した神殿であったとか、、

          

               ちなみにアテネのパルテノン神殿

               縦、69.5m 横、30.9m 円柱高さ、10.4m

 

 

    そのエフェソスで1956年、ある像が発掘されました、、

  

       

         豊穣の女神(地母神)としてのアルテミス像です、

         、、胸部にはたくさんの乳房、、

         現在は同地の考古博物館に展示されています、、

 

   

    さて、この地へキリスト教が伝播した当初、、

    あのパウロが当地の偶像崇拝を攻撃した際には、

    人々の「大いなるかな、エフェソス人のアルテミス」と叫びながらの暴動

    にあって苦心しています、、

 

       パウロ自身、母マリアにはほとんど言及せず、

       たった一度だけ、その手紙になかで、

       「神は御子を女からうまれさせ、、」と書いています、

                 、、、、

 

    しかし、後に、聖母マリア信仰をアルテミス女神に代わるものとして、

    位置づけることによって、ようやくキリスト教が広まってゆきます、、

 

    ただ、そんな経緯からか、やがて聖母マリア信仰も熱烈なものに変ってゆき、

    この地に、歴史上最初にマリアに捧げられた教会も建てられ、

    その教会で、431年には公会議が開催されて、、

    マリアを神の母(テオトコス)として、教義上の取決めも行っています、、

                   、、、、

 

       

       聖母マリアの存在がどんどんと大きくなってゆきます、、

 

 

      

       さて、はたして、彼女がこの地で亡くなったかどうか?

 

       付け加えれば彼女が住んだという?石造りの小さな家まで残っています、、

 

 

       もうひとつ加えておくなら、

       最初にあげたノートルダム大聖堂のあるフランス、

       1635年、ルイ13世はドイツ30年戦争に介入するにあたって、

       フランス王国を聖母マリアに捧げています、、

 

       この大聖堂祭壇奥に現在、ひざまずいて、聖母にフランスの王冠と王笏を

       差し出すルイ13世像が見られます、、

                       、、、、

 

 

           さても、すでによき時間、、

 

           「つづく」としておきましょうか、、

           今日はこのへんで、

 

 

 

 

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