もうひと組の親子

   こんばんは、

   もうすこし歌の話を続けてみます、

 

     まずは一枚の書の画像から、

     

    

          国宝 伝宗尊親王筆 深窓秘抄  藤田美術館蔵

 

      現在では宗尊親王(1242-74) (後嵯峨天皇第1子)の筆ではなく、

      時代をさかのぼって、平安期のもの、

      おそらく、源兼行(1023-1074)のものとの定説が、

          (紙質、筆運び等々より、)、

          雁皮紙とよばれるもので、飛雲が漉きこんだあります、

          全長830センチ、高さは26、3センチ

 

      深窓秘抄 とは 勅撰和歌集「後拾遺集」の序文に、

 

        このほか、大納言公任朝臣(中略)、わが心にかなへる歌一巻を

        あつめて深き窓にかくす集といへり。

 

        歌の数は101、百人一首に含まれる歌も何首か採られています、、

          もちろんこちらが先ですし、同歌人で数首の歌もあります、

          藤原公任 (966-1041) 、勅撰集入数88首、36歌仙を言いだした人、、

        現在この集の伝本はこれのみで、

        大正年間に西本願寺庫中にあったものが落札にかかり、今にいたるようです、

 

        ちなみに上の歌、

  

              ひとまろ

          きのふしか としはくれしか はるがす

          み かすがのやまに はやたちにけり

 

              ただみね

          はるたつと いふばかりにや みよしのの

          やまもかすみて けふはみゆらむ

 

              しげゆき

          よしのやま みねのしらゆき いつきえて

          けふはかすみの たちかはるらむ

 

                  、、、、

 

 

   さて、前置きはこれくらいにして、

   本題は、伝宗尊親王、の、そのひと、、

   

   先回の天皇の勅撰集入数に引き続いて、親王の数をみてみると、、

 

         宗尊親王           190首

         宗良親王(1311-?)     准勅撰集「新葉集」に99首、他

                             後醍醐帝皇子、第何子であるかは不明

         覚助法親王(1250-1336)      89首  後嵯峨帝第10皇子

         尊円親王(1296-1356)     43首  伏見帝第6皇子

         守覚法親王(1150-1202)   40首  後鳥羽帝叔父    

         道助親王(1196-1249)     38   後鳥羽帝皇子

         性助法親王(1247-?)      37  後嵯峨帝第6皇子

         惟明親王(1179-1221)     34   後鳥羽帝異母兄

         雅成親王(1200-55)       33   後鳥羽帝皇子

         覚譽法親王(1320-89)     29    花園帝第1子

         覚性法親王(1129-69)     22    鳥羽帝皇子

                         

                   (法親王は法門に入ったひと、)

          、、宗尊親王が飛びぬけています、、

            そして、先回ランキングに登場した天皇たちの名がほとんど、

            含まれていないのは、鳥羽帝(1103−56)のみ

            しかし、その鳥羽帝の息子覚性法親王は先回のランキング最後に

            登場した崇徳帝と兄弟(同母)

                   

                        、、、、

 

  さてその宗尊親王、母が平棟子(内侍)、身分が高くはないため、皇位は、

  当時の実力者西園寺実氏の娘(中宮)の子になる、久仁親王、後深草帝に、

  しかし、棟子は絶世の美女といわれ、宗尊も美しかったため、後嵯峨の寵愛は

  ひとしおであったといいます、

 

  そんな中、鎌倉から宗尊への将軍依頼がやってきます、

  そして、11歳での鎌倉入り、第6代将軍に、、

 

  その地で、鎌倉歌壇ともいうべきものを形成してゆきます、

  、、すこし年表を作ってみましょう、、

 

         

       後嵯峨院 生まれる   1220    

       同帝 即位         1242

                       1242   宗尊親王生まれる

                       1243       第2子後深草帝生まれる

       後深草帝に譲位     1246

                       1248       続後撰集、後嵯峨帝宣下

                       1249       第3子亀山帝生まれる

                       1252  宗尊親王鎌倉へ、時の執権は北条時頼

                       1257   後の執権北条時宗(1251−84)、

                               宗尊親王の加冠により元服

                亀山帝へ譲位を促す      1259       続古今集 後嵯峨院宣下

 

         先回触れました、後鳥羽院が息子兄弟に天皇位を継がせるのと、

         同じことを、父土御門院の無念もおそらくは知りながら、

         くりかえし後嵯峨院自らも行ってしまいます、

              亀山帝のあとの天皇も亀山帝の息子に決定しています、

         しかもこの2帝、後鳥羽院の時とは異なり、同母兄弟

         このことが、後の南北朝の起因となってしまいます、、

 

                      1260  宗尊親王婚儀、

                            妻は前執政九条兼経娘宰子

                      1261  宗尊家150番歌合わせ、鎌倉歌壇最盛期

                      1262   宗尊の奏上により後嵯峨院宣下の勅撰集

                            続古今集の撰者を追加させる

                            その結果、宗尊親王歌数67、後嵯峨院54

                                 と数が逆転

                      1263       執権北条時頼没

                                 北条時宗得宗となる

                      1265    宗尊家6帖題歌会

                                 6帖とは、

                                第一帖 - 歳時 春 夏 秋 冬 天

                                第二帖 - 山 田 野 都 田舎 家 

                                       人 仏事

                                第三帖 - 水

                                第四帖 - 恋 祝 別

                                第五帖 - 雑思 服飾 色 錦綾

                                第六帖 - 草 虫 木 鳥

                       1266    7月、宗尊親王鎌倉追放

                               父院、幕府をはばかって、親王を義絶、

                               謁見を許さず

                              11月、幕府親王に領地5か所を献上

                               父院に対し義絶を解くことを要請

                              12月、父院と帰京後はじめて対面

       亀山帝皇子

       (後の後宇多天皇)立太子 1268

       後嵯峨院没         1272    父院の崩御をうけて、宗尊親王出家

              3月亀山帝譲位      1274    7月宗尊親王没(33歳)

                              10月 第一回元寇、文永の役

       亀山院、続拾遺集宣下  1278

 

                 ちなみにこの歌集では、

                  後嵯峨院33 亀山院20 宗尊親王18

                  後鳥羽院19(亀山院曾祖父) 土御門院16(祖父)

                  順徳院15

                       等々、絶妙なるパワー・バランス

 

                        、、、、

 

 

   さて、話を宗尊親王本人へ、、当初、親王は鎌倉で大歓迎をうけます、

   北条政子(1157‐1225)の頃から、親王位である人への

   将軍依頼を行っていましたが、後鳥羽院は拒絶、

   北条・鎌倉幕府によって天皇位についた後嵯峨帝の

   世になって初めて実現します、

 

   しかし、宗尊親王が元服し、歌による権威を確立したのに対し、

   時頼死後、北条得宗家としては、親王将軍の存在が煙たくなったためか、

   親王は謀反の嫌疑(冤罪)をかけられ送還

 

       この年、親王の妻宰子と親王夫妻の護持僧良基の

       密通が発覚、京との連絡(事後処理方法相談)を何度もとっていたのを、

       眼につけられて、、

 

       しかし、2歳の息子(惟康)はそのまま次期将軍におさまります、

       妻宰子は11月に京へ

 

       この送還決定後、これに反対する名越流北条氏などが武力による示威行為も

       行っています、それだけ慕われていたということでしょうか?

 

         もうひとつ付け加えると、のちに時宗の息子第9代執権北条貞時は、

         北条氏一族の家臣が勅撰集に入集することを禁ずるふれを出したとか、、

 

                      、、、、

 

 

   帰京後、まだ20代半ば、

   依然父帝からも可愛がられ、経済的にも何不自由なく過ごせていたようですが、

   歌からは悲痛な懐旧・失意の情があふれます、、

 

      こんな歌も

 

        あめつちを うごかす道と 思ひしも むかしなりけり 大和ことの葉

 

 

     作品は、この上もない苦しみを経て、より美しくなります、

 

 

       つよくのみ おもひぞいづる あらきかぜ 吹きはじめにし みなつきの空

 

       忘れずよ あくがれそめし 山ざとの そのよの雨の 音のはげしさ

 

 

     こんな歌も

 

 

       いかにせんむ 霞める空を あはれとも 言はばなべての 春の曙

 

           しかし、この歌は1263年6月作

           ここらが、本来の詩人の気質、、鎌倉での活躍期の作品

 

 

       いにしへを 昨日の夢と おどろけば うつつの外に 今日も暮れつつ

 

               1266年、京に帰った10月、

           、、昨夜の夢に過ぎないと思って目覚めると、、

 

                       、、、、

 

 

    さてさて、歌シリーズが続きますが、

    どうしても、もうひとり登場してもらはないといけない人があります、

    既に名前も挙がっていますが、、

     、、(むろん、ひとりですむわけはないのですが)、、どうしても、もうひとり、、

 

 

          ということで、つづく、としまして、

           今日はこのへんで、

         

 

         参考文献  新たに加えるものとして

           鎌倉6代将軍宗尊親王 菊池威雄 新典社

           武士はなぜ歌を詠むか 小川剛生 角川選書

           日本の国宝34 朝日新聞社

           明治書院 和歌文学大系7 続拾遺和歌集

           

                                他

 

 

 


立春(新春)2首 承久の乱、その後

   あけまして おめでとうございます、と書けば既に遅すぎますか??

   本年も細々と綴ってゆこうかと思っております、どうぞよろしく、、

   今回は久方ぶりに、歌を引用してみましょう、、

 

   まずはこの一首から、

 

          建長六年(1254)三首歌合に、梅

 

     袖ふれば 色までうつれ 紅の 初花染めに 咲ける梅が枝

 

                           続拾遺和歌集(1278) 44

 

                     後嵯峨院 承久二〜文永九(1220-1272)

 

           袖が触れたなら、香りだけでなく 色までうつり染めよ、、  

           とでもいいますか、、

 

   作者は、

   2歳足らずで、父帝と生き別れ、(それより以前に母とは死別)、、

   やむなく母方の実家で、後には祖母のもとで育てられますが、そこも零落は免れなく、

   23歳になっても元服出来ないというありさまにまで、、、

 

   

   その父、土御門院(1195−1231)になりますが、

   承久の乱(1221)で、その父帝後鳥羽院(隠岐)(1180-1239)や、

   異母弟順徳院(佐渡)(1197-1242)らと同様、土佐に流されてしまいます、

   ただし、乱に直接は全く関係していなかったようで、当初何のおとがめも

   無かったのですが、自ら進んで流刑を望み、これに対して鎌倉側は、はじめ

   認めなかったようですが、結局は折れて、院は土佐へ向かったと言います、、

           (後に鎌倉の意向で少しでも都に近い阿波に移りましたが、)

 

        こちらは、皇位継承順位 

    

       

                  from ; history.kaisetsuvoice.com

 

     

                               from ; www.lib.meiji.ac.jp

 

     「増鏡」には、その土御門院に関してこんな記述が

 

      元の帝、ことしは16にならせ給えば、いまだ遥かなるべき御盛りに、

      かかるをいと飽かずあわれと思されたり (中略)

      この帝はいとあてにおほどかなる御本性にて、思し結ぼほれぬには

      あらね共、御気色にも漏らし給はず、世にもいとあえなき事に思い

      申しけり

         

         異母弟順徳に帝位を譲る際、つらく納得のゆかないことと思われましたが

         それを顔色や言葉に出されることなく、世間の人々は、張り合いなく思った

         、、

 

      中の院は初めより知ろし召さぬ事なれば、東にも咎め申さねど、父

      の院遥かに遷らせ給ひぬるに、のどかにて都にあらん事いと恐れ

      ありと思されて、御心もてその年閏十月十日、土佐国幡多という

      所に渡らせ給いぬ

 

    この院に関しては、こんな記述(「増鏡」)もありまして、、

 

      新院も、のどかにおはします儘には御歌をのみ詠ませ給へど、

      よろづの事、もて出でぬ御本性にて、人々など集めてわざとある様には

      好ませ給はず。健保の頃、うちうち百首御歌詠み給へりしを、家隆の

      三位、又定家の治部卿の元などへ、いふかいなき児の詠めるとて、

      遣はして見せられしに、いづれもめでたく様々なる中に、懐旧の御歌に、

 

        秋の色を送り迎えて雲の上に 馴れ来し月も物忘れすな

 

      とある所に、定家の君驚き畏まりて裏書に、「あさましく謀られ

      たてまつりけること」 など記して、

        

        飽かざりし月もさこそは思ふらめ ふるき涙も忘られぬ世を

 

      と奏せられたり。

 

        万事華やかに言葉や態度には現わさない御性格で、わざわざ歌会などと

         催すことはお好みはなく、家隆・定家にとどけたところ、

         雲の上が宮中のことでもあるゆえ、定家は気付き、、、

 

   この百歌のなかの巻頭歌が、今日の2首目のもの、

 

         立春

 

     朝あけの 霞の衣ほしそめて 春たちなるる あまの香具山 

 

                    、、、、 

    

 

   さて、すこし寄り道をしますが、歴代天皇の勅撰和歌集入収数といったものもって、

   異説などもあるようですが、多いところからすこし挙げてみますと、、

 

             第92代  伏見院     295首

               82   後鳥羽院    250

                88       後嵯峨院        209

                84       順徳院            159

                83       土御門院         154

                95       花園院            118

                90       亀山院            106

                94       後二条            100

                93       後伏見             94

                96       後醍醐             84

          北朝第1代  光厳院             79

                75       崇徳院             78

             

                こんな感じでしょうか、、

                (すこし好い加減ですが、、)           

           

            お気付きでしょうが、

      上の系図表にの中の5人までもが上位に入っています、、

 

                、、、、

 

   もうひとつ、、その勅撰和歌集そもそもですが、

   いわゆる「21代集」、すこし書いてみますと、、

 

      

                 勅宣下(院宣下)

       1、 古今集    醍醐天皇   805年

       2、 後撰集    村上天皇   951

             3、 拾遺集    花山院?   ?

       4、 後拾遺集   白河天皇  1078

       5、 金葉集    白河院    1124

       6、 詞花集    崇徳院    1144

                          1156 保元の乱 崇徳院流罪

                          1159 平治の乱

                          1164 崇徳院死去

       7、 千載集    後白河院   1183

                   この集は崇徳院鎮魂のためもあって編纂される

                           1185 平氏滅亡 安徳帝入水

       8、 新古今集   後鳥羽院   1201

                    院の鎌倉幕府牽制(打倒)の意思が

                    盛り込まれているようで、たとえば、

                    雑歌3巻のうちの中編の中ほどの、

                    後鳥羽院の歌、、

               

                  住吉歌合に、山を

 

           おく山の おどろがしたも ふみ分けて 道あるよぞと 人にしらせん

 

                 この集で、最も新しい歌のひとつ、1208年5月29日作

                   おどろとは茨、やぶのこと、

                   おどろの道で、公卿たちの意味合いになるようで

                   院自身の為政意思が盛り込まれています、、

                       住吉は、「住みよい」が含まれていますし、

                       住吉大社は和歌の神様でもあります、、

                   そして住吉の歌というと、後三条院(1034−74)の

 

               延久5年(1073)3月に住吉にまいらせたまひて、

               帰さによませたまいける

 

           住吉の 神はあはれと 思ふらん むなしき舟を さしてきたれば

 

                         後拾遺集 雑4巻

            

                 この歌が、伏線であらわれるようで、

                   後三条院が藤原摂関政治から苦労して離れ、

                   院政の基礎をつくりあげたことをほのめかしもするようです

                   院の死の2か月前のもの

                   後鳥羽院の鎌倉幕府からの回生をも暗示します、、

 

                            1219 将軍実朝、暗殺される

                            1221 承久の乱 3上皇流罪

                                                               1226 藤原頼経将軍に 

                                                                         藤原(公家)将軍の始め

       9、 新勅撰集   後堀川天皇  1233

                    この集には流罪3上皇等、乱の主導者の歌が全く

                    入っていなく、鎌倉方武士の作品が盛り込まれている

                            1239 土御門院、阿波にて死去

                            1239 後鳥羽院 隠岐にて死去

                            1242 順徳院 佐渡にて死去

       10、 続後撰集   後嵯峨院   1248

                    3上皇作品の復活

                    後鳥羽院 29首、土御門院 26、順徳院 17、

                    後嵯峨院 23、                     

                             1252  宗尊親王(後嵯峨院第1子)将軍に 

                                                                          皇族将軍の始め

       11、 続古今集   後嵯峨院   1259

       12、 続拾遺集   亀山院     1278

       13、 新後撰集   後宇多院    1302

       14、 玉葉集      伏見院     1311

       15、 続千載集    後宇多院   1318

       16、 続後拾遺集  後醍醐天皇  1323

                             1332  後醍醐天皇隠岐配流

                             1333 鎌倉幕府滅亡

                             1336 建武式目制定 後醍醐天皇吉野へ

                             1338 足利尊氏 征夷大将軍に

       17、 風雅集     花園院     1344  北朝 康永3年   撰者 光厳院

       18、 新千載集   後光厳院    1358      同 延文元年

       19、 新拾遺集   後公厳院    1363   同 貞治2年

                    この時期、自己のアイデンティティーを証明すべく?

                    北朝側の作品が並びます、、

       20、 新後拾遺   後円融天皇  1375

                             1392   南北朝合一    

       21、 新続古今   後花園天皇  1433          
                                            
                               

         ここにも、系図表の名前がちらほら、

         そして入選順位のなかからも、ちらほら、、、

 

       そして今日本来の歌(上記)の人、後嵯峨院は2度も綸旨を出しています、、

       、、2度出したのは、4人いますが、、

 

                     、、、、

                

 

  このへんで、話を最初に戻して、、

  その、後嵯峨天皇、12歳の時には父院も阿波で亡くなり、

  元服も出来ず、出家も、祖母に許されない状態、、

 

  しかし、突然の事故で12歳の四条天皇が崩御、もちろん後継ぎもいない状態、

  皇位継承問題が浮上します、

  公家たちは、順徳院の子息、忠成王の擁立をもくろみますが、

  鎌倉幕府は慎重論をとり、承久の乱には係わりのなかった土御門院の子息を

  立てることを取り決めます、、

 

    その決定の申し上げのようすが「増鏡」には、

 

    

    土御門殿へ参りたれど、門は葎(むぐら)強く固め、扉も錆びつき、

    柱は朽ちて開かざりけるを、郎党どもにとかくせさせて、内に参りて

    見回せば、草深く苔むして人の通へる跡もなし。

    故通宗宰相中将が弟を子にし給へりし定通の大臣、何となくおのづからの

    事もやと思ひて、萎えばめる烏帽子直衣にて侍らひ給ひけるぞ、中門に

    出でて対面し給ふ。

    義景(鎌倉の使者)は、切戸の脇にかしこまりて侍りける。「阿波院の御子、

    御位に」と申して出でぬ。

 

                     、、、、

 

 

  さてさて、昨年末に、ふと土御門院のことが頭に浮かび、すこし書いてしまいました、、

 

    、、20代半ばで、2歳にも満たないわが子を残して、自ら土佐へ向かった人、、

     「承久記」には、

 

     承元3年3月、御心ならず御位をすべらし給いしかば、御恨み深くして

     おはしましける。されば関東よりも兎角の沙汰にも及ばず、

     都におはしけるが、「その恨み深しといえども、人界に生を受くる事、

     これ父母の恩なり。しかるに一院(父帝)配所に奉り置きながら、わが身都に

     安堵して居る事、いよいよ不孝の罪深かるべし。同じく遠国にこそすまめ。」

     と、、云々(後略)

 

  

         今日はこのへんで、

 

              参考文献

                承久記 現代思潮社

                増鏡全注釈 笠間書院

                承久の乱と後鳥羽院 関幸彦 吉川弘文館

                明治書院 和歌文学大系37 続後撰和歌集 

                新注和歌文学叢書12 土御門院御百首 青簡舎

                歴代天皇総覧 笠原英彦 中公新書

                流罪の日本史 渡邊大門 筑摩新書

                塚本邦雄 清唱千首 冨山房

                新国語総覧 京都書房

                              他

                

 

   

 


シェリー、バイロン、そして

  こんばんは、

  すこし寄り道をしてみます、、

  まずは一枚のレコード(CDではなく)ジャケットから、

 

    

     イギリス、ユニコーン・レーベルから出されていた、

       グスタフ・マーラー(1860−1911)の交響曲第3番、

       ヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮、ロンドン交響楽団

 

   ただし、この楽曲に触れたいためではなく、この絵画作品がお目当てですが、、

   私事になりますが、10代半ば頃このジャケット写真をある雑誌の広告で

   目にして以来、さてさて誰の何という作品なのか、この疑問が脳裏の片隅に

   しっかりと居座ってしまいました、

   当時、弱輩にとって、調べる手立てさえもなく、、

   

   そして、何年も後に、これもまたある雑誌で、

   作者サミュエル・パーマー(1805−81)という人物に出会います、

   上の作品は1825年製作の「早朝」と題されたもので、オックスフォード大学、

   アシュモレアン博物館(世界初の大学博物館)所蔵になります、

 

 

   さて、何故このジャケットが登場したのか、

   もう1枚、こちらは本のジャケット

 

            

    先回、シェリーがポケットに入れたまま、溺死してしまった、

    キーツ詩集の現在のジャケット、

     

   これもまた、サミュエル・パーマーの作品、

   「魔法の林檎の木」と題された1830年製作のもの、(水彩)

   面白いことに、こちらはケンブリッジ大学のフィッツウイリアム博物館所蔵、

     (両博物館とも寄贈コレクターの名前から館名が付けられています、

      アシュモレー(1617-92)、フィッツウイリアム(1745-1816)

     大学博物館といって、あなどるなかれ、大英帝国の底知れぬ力を感じさせます、

 

     このパーマーについて、碩学ケネス・クラークが「風景画論」1976

     でこう書いています、

 

      パーマーはまず精神の眼で物を見、そこから、草の葉も木の葉も雲も

      すべては神の創った意匠にならってそれぞれ形を得ていること知った。

      言うなれば中世的な物の見方であり、結果として象徴の風景ときわめて

      密接するスタイルが創造されたのである。

 

      彼の描く羊の群れや麦の穂、仲秋の満月やたわわに果実をつけた木々は

      ある熱烈な確信、田園の素朴さの中にのみ良き生活があるという確信を

      象徴する。

 

      (しかし)19世紀の煤煙が立ちこめるにつれて、彼は気力を無くしていった。

      そのイメージはしだいに弱よわしくなり、スタイルも通俗化していった。

      かくしてパーマーと共に、ジョルジョーネの時代から19世紀まで

      魅惑と慰藉の源泉であったヨーロッパ芸術の美しきエピソード(自然感)は

      終わりを告げる。

 

      「何か神がこの場に臨み給い」、自然につねならぬ安全性を与えている

      という感情は、追い払われてしまった。この感情がふたたび息を吹き返す

      ことは無いであろう  

 

                         、、、、

 

 

  そう、イギリス・ロマン派の画家たちと言えば、

  両巨匠、ウィリアム・ターナー(1775−1851)

        ジョン・コンスタブル(1776−1837)に、

  パーマーの師匠でもある、

        ウィリアム・ブレイク(1757−1827)

  それに今回の

        サミュエル・パーマー(1805−81)

 

     こんな風に、実は考えているのですが、

     もちろん他の画家たちにも登場してもらわないといけないのかも知れませんが、

 

 

  そして、それに対するロマン派の詩人たちとなると、

     (どうやらこの6人が一般的に6大詩人として挙げられるようです)

     

      ウィリアム・ブレイク (1757-1827) 69歳

      ワーズワース (1770-1850) 80歳

      コールリッジ (1772-1834) 61歳

 

      バイロン (1788-1824) 36歳

      シェリー (1792-1822) 29歳

      キーツ (1795-1821) 25歳

 

 

    生年順にあげてみましたが、下の3人はみんな若くで亡くなっています

    それも生まれの遅い順番に、、まるで連鎖するように、、

 

    さて、そのシェリー、先回から続けて、まずこちらイタリア政府観光局の地図から

 

     

       北部中央にリヴォルノ、その上にラ・スペツィアとありますが、

       シェリーの住まいが、このスペツィア湾に臨む街、レリチ

       バイロンがリヴォルノに居ましたから、、

       その距離60キロほどでしょうか、ヨットで半日もかからない?行程、、

       シェリー、ほとんどスペツィア湾に入ってから嵐に遭遇したといいます、、

       そして流されて、両地点の中間ポイント少し南寄りのヴィアレッジョで

       水死体が見つかります、

         このあたりの海流は北向き、逆方向に流されているようですが、、

 

 

       そして、先回の画のように火葬されます、

       

       心臓は燃え残ったようで、友人が火傷をしながら取りだして、

       シェリー夫人に渡されます、、

       

 

 

   さて、そのシェリーが書いたオルペウス、、

 

 

    万物は「人間」の力を明証している 冷たい大理石と色彩の

    集合を通してその諸々の夢が通ってゆく

   また明るい種種の糸を通して その糸で母親たちは子供が着る衣服を織る

    詩文は絶えることのないオルフェウスの歌だ

    それは趣向に富んだ諧調をもって幾多の

   思想と形式とを統一する それなくして意味も形もなかったのだ

 

          プロミーシュース(プロメテウス)の解放 第4幕 より

 

                  、、、、

 

 

   最後はバイロン、

   当時、考えられる限りの奔放さで生きた人物とでも言いましょうか?

   お堅いイギリスでは、そもそも生きてゆけなかったような人、、

   しかし、最後はギリシア独立援助(トルコ帝国からの)という使命と出会い、

   自費で船や兵士を雇って、現地(メソロンギ)に乗り込みます、

   しかし、同地にて雨天の中の騎乗により発熱、

 

      1月5日 メソロンギ到着

      4月9日 病に臥す

        19日 午後6時過ぎ永眠

  

      5月14日 死の知らせがロンドンに届く

      6月29日 遺骸ロンドン到着

      7月12日 葬儀

         16日 埋葬

 

   ウエストミンスター寺院に埋葬されることは拒まれます、

   (当時の風評の悪さゆえ)

 

       下が地下墓の様子、家族と共に眠っています、

 

               

 

    

               from ; aforteantinthearchives

 

         写真左端がバイロン、その隣中央が、娘オーガスタのもの、

         妻との間の子供で(それ以外の子供もいるわけですが)、、

         名前はバイロンの異母姉オーガスタ・リーからとられたもの、

         彼女リーはバイロンと近親相姦、そして不倫関係にあり、

         そのこともあって、イギリスでの彼の立場は危うくなります、

         結局、妻は、娘の母親は、生後1カ月の

         彼女を連れて離婚、そのあとすぐにバイロンはイギリスを離れます、、

         その後、バイロンもイギリスに戻ることもなく、

         親子は2度と会うことはありませんでしたが、

         こうして今は、隣に眠っているようです、、

 

       ただし、彼の死後1カ月ほどでギリシアの多くの町々で彼の追悼式が

       行われ、英雄扱いされ、全ヨーロッパ的に、その行動が評価されます、

 

       このことも、娘の気持ちを動かしたのでしょうか、、

      

 

      場所はイギリス中部ノッティンガム近郊、ハックナルの

      聖マグダラのマリア教会、

        彼の領地はここにありました、いうなれば地元、、

 

      ウエストミンスター教会には、1969年になって彼の記念コーナーが

      設けられたといいます、、

 

 

   さて、そのバイロンもオルペウスを歌っているのですが、

   残念ながら翻訳が見つかりません、

     、(もし何処かに存在するならご教示いただきたく思いますが、)

 

   アクチウム海戦の戦場、アンブラキコス湾・アンブラキア湾を通過する際の作品、

   クレオパトラやアントニウスに思いを馳せながら書いています、、

     もちろん私、翻訳能力を備えていないので原文にての引用です、、 

 

 

 

 

       Stanzas Written In Passing The Ambracian Gulf

           Through cloudless skies, in silvery sheen, 
           Full beams the moon on Actium's coast: 
           And on these waves for Egypt's queen, 
           The ancient world was won and lost. 

           And now upon the scene I look, 
           The azure grave of many a Roman; 
           Where stem Ambition once forsook 
           His wavering crown to follow woman. 

           Florence! whom I will love as well 
           As ever yet was said or sung 
           (Since Orpheus sang his spouse from hell), 
           Whilst thou art fair and I am young; 

           Sweet Florence! those were pleasant times; 
           When worlds were staked for ladies' 
          Had bards as many realms as rhymes; 
          Thy charms might raise new Antonies. 

         Though Fate forbids such things to be 
           Yet, by thine eyes and ringlets curl'd! 
           I cannot lose a world for thee, 
           But would not lose thee for a world.

 

            、、、、

 

 

  さて、さて、ここらで終了としたいところですが、

  記述されたオルペウス、そのイギリス篇として、最後には

  あのシェイクスピア(1564-1616)に登場してもらはなくてはなりません、、

 

  まずは彼の最初期作品、

  喜劇「ヴェローナ(イタリア都市)の2紳士」(1589−91年)から

  女性の口説き方心得として教示される場面

 

     姫の美の祭壇に生け贄として

     捧げるのは、あなたの涙、ため息、心だと言うのです。

     インクが乾くまで書いたら、あなたの涙でそれを

     再び濡らし、そういう一途さが露わになるような

     感動的な詩をしたためなさい。何しろ

     オルフェウスの竪琴の弦は詩人の神経であり、

     その黄金の調べを聴けば鋼鉄や岩石も柔らかになり、

     獰猛な虎は飼いならされ、巨大なクジラすら

     底知れぬ海を捨てて砂浜で踊りだすのだから。  

     暗い嘆きに沈む恋の歌を贈ったあとは

     甘い調べを奏でる楽師たちを引き連れて

     夜ごとに姫の窓辺を訪ね、その演奏にあわせて

     悲しげな歌を歌うのです。

 

 

  もうひとつ、こちらは最後記の作品、史劇「ヘンリー8世」(1613年)から

       この作品、エリザベス(後の女王)誕生で終わっていますが

       ヘンリー王(1491−1547)、エリザベス(1533−1603)

       女王死後10年経って書かれています、

       そろそろほとぼりも冷めたということでしょうか、、

     

  王の最初の妻キャサリンが、王が離婚を考えているのを知った後の場面

  彼女の侍女への台詞からから始まる第3幕の冒頭に、

 

     リュートをとって歌ってちょうだい。悩みごとで滅入っている心を

     晴らしてほしいの。針仕事などよして。

 

         歌

 

     オルフェウスがリュートをとれば

     木々の梢も雪積む峰も

       首うなだれて聞き惚れぬ

     オルフェウスの調べにつれて

     可憐な花も緑の草も

       常春(とこはる)のごと萌え出でぬ

 

     オルフェウスの歌声聞けば

     高ぶる海の荒波さえも

       頭をたれて静まりぬ

     オルフェウスの妙なる曲に

     胸の痛みも心の憂さも

       眠りにつくごと消えはてぬ

 

           、、、、

 

 

     

   、、これにてオルフェウス・オルペウス イギリス篇は終了、

 

   つぎにはフランス篇が控えてもいるようですが、

   はたして、如何なりますことやら、、

 

      今日は、このへんで、、

 

 

         参考文献等 (新たに加えるものとして)

 

           新潮社世界詩人全集2 バイロン

           バイロン詩集 小川和夫訳 角川文庫

           対訳 バイロン詩集 岩波文庫

           シェリー プロミーシュースの解放 原田博訳 音羽書房鶴見書店

           ケネス・クラーク 風景画論 ちくま学芸文庫

           高橋裕子 イギリス美術 岩波新書

           アシュモレアン博物館、フイッツウィリアム博物館ホームページ

           シェイクスピア ヴェローナの2紳士 松岡和子訳 ちくま文庫

             同       ヘンリー8世 小田島雄志訳 白水社

                                    他

 

 

 

 


書かれたオルペウス

  こんばんは、

  今回は、記述された「オルペウス」ということで、進めてゆきますが、、

 

  まずローマの地図から始めます、

  

                                     from ; orange smile

   すこし小さくなってしまいましたが、左中央にサン・ピエトロ寺院、

   まん中あたりにコロッセオ、フォロ・ロマーノ、ローマ市庁舎、

   そして、中央一番下、小さなピラミッドと左横の色の変わった、すこし斜めになった

   長方形部分、

   ピラミッドが執政官ガイウス・ケスティウスの墓(紀元前18〜12年頃建造)で、

   その横の長方形、イタリア語表記で、Cimitero acattolico、 非カトリック墓地です、、

 

   この場所、ローマ市街を囲む壁(アウレリアヌス城壁、紀元270年代前半に造られた)

 

 

  

                  from ; wikipedia

 

                       外側の囲い壁の内側、壁に沿った敷地にもうけられていますが、

          地図で見ると、いわゆる、一番南の、いうなれば西寄り、

          墓地としては、まさにふさわしい場所、、

 

   

                   from ; wikipedia

          城壁はピラミッドを利用して建てられています、

          ちょうど左手に見える木立のあたりに墓地が、、

 

 

   古くからこの地は墓地だったようですが、18世紀半ばにあるドイツ人医師(新教徒)が

   埋葬されて以後、プロテスタントを含む非カトリック者の埋葬場所になったようで??

   という文章をどこかで目にしたような、、

 

     実はこの墓地には4人の日本人も埋葬されていまして、

     明治初めにイタリア在駐公使であった人物の3人の幼い子供たちと

     同じく明治初期に大使館員のような仕事をしていた、著述家で翻訳家でもある

     人物、こちらは33歳でなくなっていますが、

     

        

                  from ; wikipedia

 

    少しづつ本題に近づいてゆきますが、

  この墓地にひとりのイギリス人が埋葬されています、その墓石が、

 

           

                    from ; wikipedia

   YOUNG ENGLISH POET  記され、埋葬された本人の名前が見えません、

   そのいちばん下の部分に

           Here lies One
       Whose Name was writ in Water.

 

         水に書かれた名前

         、いうなれば、、無名であり、すぐに消し去られる、とでも、、

         

       この部分、亡き本人の意思で書かれていますが、

       どうも、もとは、古い英国戯曲から取られているようです、

 

  さて、その人物 ローマで亡くなった英国詩人、ジョン・キーツ(1795-1821)です、

  かれは結核を患っており、友人の同じく英国詩人パーシー・ビッシュ・シェリー

  (1792-1822)の招きもあって、ローマで転地療養中に亡くなってしまいました、

  上の写真、墓石上部には竪琴が彫られています、

  竪琴は、オルペウス、アポロ、ヘルメス、そして先々回のブログでも触れましたが、

  エラトー、テレプシコラー、ひいてはミューズ、詩神たちの持ち物、、

 

  彼は25歳で亡くなってしまいましたが、その処女詩集とも呼ぶべき作品、

  4000行にもおよぶ長編詩ですが、そのなかにオルペウスが登場します、

  その部分、、

 

    イオルスの魔法の音を 解き放つとき、

    霧に閉ざされた墓石から いにしえの歌よみがえり、

    古謡のなげきが 歌人の墓の上を流れゆく。

    旋律に預言を託すあまたの霊が 陶酔の声あげて

    詩神の足跡を くまなく辿り巡りゆく。

    青銅の喇叭は息吹き返し、はるか昔の大戦の地に

    霊(かそ)けき布告の音を響かせる。

    また、幼きオルフェウスの眠れる地ことごとく

    芝生から 守歌が流れ出す。

    人にこれらのことが感じられようか?---その瞬間 人は

    それらと一体であるかのように、

    漂う霊のようになる。だが より豊かに

    心を巻き込むものがある。人の心をはるかに空しくし

    魅了するものがある。それは、徐々に、

    激しさの極みへと人を導いてゆく。その頂を飾るのは

    愛と友情であり、人間性の

    頭高くに坐している。

 

           エンディミオンより 

            イオルス、アイオロスとも、、 は風を支配する神 

 

   

             from : wikipedia

    実はこのキーツの墓、隣に彼と共にローマへやって来た友人の画家のセヴァンの

    (1793-1879)ものと寄り添うように設けられています、

    竪琴と対比するようにパレットと筆が彫られていますが、こちらの墓石にキーツの名が

    刻まれています、

 

          セヴァン、彼は異国ローマで最後までキーツを看取り、

     後年(1861年)には、イギリス領事にも任命されたようなひと、

     亡くなったのがローマということもあって、

     こうしてイギリスではない地にキーツと二人で埋葬されるという、、

     友情といってしまえば、言葉はそれで終わってしまいますが、、

 

     そうそう、ふたりのまん中にある小さな石は、セヴァンの息子の墓石であるとか、、

 

               、、、、

 

     煌(きら)めく星よ、わたしはなんじのように不動でありたい---

      だがひとり燦然として夜空の上に懸り

     永久に瞼をひらいて、

      あたかも「自然」にかしづき、眠ることのない隠者のごとく、

     動きやまぬ波が大地の人間臭い岸部をめぐり、

      これを神官のように洗いきよめる垢離(こり)の式を行うのを見守り、

     あるいはまた、山々や荒野に降りしいた

      新雪の柔らかいおもてを眺めるのにあらず---

     いや---そうではなく、いつも不動で、変わることなく、

      わが愛するひとのふくらみ熟する胸に枕して、

     その柔らかい高下を永久に感じ、

      楽しいおののきに」永久に目ざめ、

     常に、常にかのひとのやさしい息使いを聞き、

      そして常に生きたい---さもなくば、昏倒して死にたいものを。

     

  この詩、従来「最後のソネット」とよばれているもの、

  ローマへ向かう船がイギリス最南端ドーセットシャーに停泊中、

  自らが持つシェイクスピア詩集の空白の頁に書いていたものを

  浄書してセヴァンに手渡したものといいます、

 

    死の前年の 9月17日出航

    10月17日にナポリに到着しますが、検疫のため10日間

    船中に閉じ込められ上陸を許されません、

    11月上旬馬車でローマへ向かい15日に到着

    あのスペイン広場横の建物に落ち着きますが、

 

      現在ここは「キーツ・シェリー記念館」として公開されています、

      ここの表示プレートにも竪琴が、

 

          

                                     from ; pictures fromitaly.com

                                 

 

        

              右手の建物  from ; wikivoyage

 

     11月末には喀血、

     12月に入ると、発熱、病状悪化、

     翌年2月半ば、セヴァンに上記墓碑に彫り込む文字を指示しますが、

     上のプレートにも書かれていますが、2月23日午後11時、永眠します、(24日)

     26日に上記墓地に埋葬されます、

     石碑が建立されたのが3年後1823年

     セヴァンが亡くなったのが1879年、

     同年、上の記念館がオープンします、

 

                    、、、、                                                                                                          

 

 

  さてさて、そのキーツをローマに誘ったシェリー、

  (知り合ったのは1816年のこと)

  二人のその時の手紙のやり取りが残っていまして、

 

    まずは、シェリーの誘いの方から、、

    1820年7月27日、イタリア・ピサからのもの

 

     親愛なるキーツ

     あなたが遭遇された危険な災難ことを耳にして、痛ましい気持ちでいっぱいです。

     その話はギズボーン氏が知らせてくれたのですが、彼の話ではあなたは今も結核を

     患っている様子だとのこと。結核はあなたのようにいい詩を書く人間を特に好む

     病気でまた英国の冬という助けがあるものだから、患者を思うままに選択することが

     しばしば可能なのです。(中略)

     そのような恐ろしい災難にあわれたのなら、イタリアで冬を過ごされるのがいいと

     ぼくは思います。そして、ピサ及びその付近があなたの気に入るかぎり(ぼくが

     考えているようにもしあなたもその必要があるとお考えでしたら)ぼくたちのところに

     一緒に滞在していただくようシェリー夫人ともどもお願いする次第です。(中略)

     何はともあれ、あなたはイタリアを一度見るべきです。ぼくが動機として示唆した

     あなたの健康状態が、あなたにとっては口実になりうるでしょう。

     ---彫刻、そして絵画、そして廃墟について弁じたてることは控えておきます---

     そしてもっとも大きな我慢ですが---山々、川、平原、空の色、それに空そのもの

     についても、何も言わないでおきましょう---(中略、そして最後に)

     あなたが英国に留まるにしても、あるいはイタリアに旅をされるにしても、---

     あなたがどこに居て何をなさっているにしても、あなたの健康と幸福と成功への

     ぼくの切なる願いがあなたと共にあることを信じて下さい---

                     敬具  P ・B ・シェリー

                       (ハーバード大学ホートン図書館蔵)

 

    これに対するキーツからの返事、8月16日、 

    (ローマへ向けての出航の一か月前)ロンドン・ハムステッドから

 

     親愛なるシェリー

     外国におられて何かと気苦労の多いあなたが、今ぼくの手元にあるお手紙の

     ように書いて下さってとても感謝しています。あなたの折角の招きをもし今お受け

     しないとしたら、もうこの後では、確実なものとして内心に予想せざるをえない或る

     状況のために(結核)、駄目になるでしょう---英国の冬がぼくに止めを刺すことは

     疑いの余地がありません、それもじわじわと忌まわしい仕方で。ですからぼくは、

     海路でなり陸路でなり、兵士が砲列にむかって前進するように、イタリアへ是非

     行く必要があります。(肝心の内容は略しますが、最後に)

     お送りする詩集の大部分は、二年以上にわたって書かれたもので、お金のために

     出版したものです。(中略)

     あなたの御親切を深く感じていることをもう一度申しあげ、シェリー夫人への心から

     の感謝と敬意を申し添える次第です。近いうちに拝眉の機会のあることを願って

     います。

                      敬具  ジョン・キーツ---

                       (大英博物館蔵、現在は大英図書館蔵?)

 

               この時(7月)出版した詩集は、好評で売行きも良かったようで、イタリア行きの

       費用に当てられたとか、、

       しかし、翌年の死、、

     

     

  さてそのシェリー、キーツの死を、4月にピサの住居で知り、すぐに哀悼の悲歌を

  つくります、 そして、ピサで出版、

 

        

 

         55連、500行にも及ばんとする作品ですが、

         その冒頭、、   

 

                 1

      私はアドネーイスのために泣く---彼は死んだ!

      おう アドネーイスのために泣け! 涙が あの

      なつかしい頭をとざす霜を融かすことがなかろうとも!

      そしてあらゆる歳月から 私らの損失を悲しむために

      選ばれた おまえ 悲しい「時」よ、おまえの隠れた仲間を呼び起こし

      おまえの悲しみを教えよ---「わたしとともに

      アドネーイスは死んだ、未来が過去を忘れぬかぎり

      かれの運命と名声は 永遠に

     こだまやひかりとして伝わるであろうと!」と。

 

                 55

      かって歌にその力を願い求めた息吹が 私のうえにふりかかる。

      私の魂の小舟は、岸べからはるかに、

      嵐にまだ帆をさらしたことのない

      おののく群れから、とおく吹きはらわれる。

      巨大な大地と天球のような大空はひき裂かれている!

      私はやみくもに おそれつつ とおくへ運ばれる。

      「天空」の奥まった帳(とばり)を焼きつらねいて

      アドネーイスの魂は 星のように

     「永遠」の棲み家から 私をみちびく。

 

       

       アドネーイス( Adonais )

       ギリシア神話の美青年アドニス

       (ビーナスの愛人で、イノシシに襲われて落命その流れた血から

        アネモネがうまれたという)

       と、ヘブライ語アドナイ( Adonai ) 「主」を意味する、 の合成語とも、

 

   この詩作品、イギリス3大悲歌のうちのひとつとも言われ、

   たとえば、ローリング・ストーンズの1969年7月のハイドパークでのコンサートで

   直前に急死したブライアン・ジョーンズのためにミック・ジャガーが、その39連と

   52連の一部を朗読しています、、

 

                  39

       しずかに しずかに!かれは死んではいない かれは眠ってはいない--

       かれは 生の夢からめざめたのだ---

       激しい夢想におぼれ 幻影とむなしいたたかいをつづけ

       我れを忘れて狂ったように 魂の刃(やいば)で

       傷つくことのない無を撃つのはわれら---

       その私らこそが 納骨堂のしかばねのごとく朽ちていくのだ。

       恐怖と嘆きは 日々 私らを悶えさせ

       私らを焼きつくし、冷たい希望は

      私らの肉体のうちに 蛆虫どものように群がる。

 

                  52 

       「一」は残り、多は変化し消滅する。

       「天」の光は永遠にかがやき、「大地」の影は飛び去る。

       「生」は多彩なガラスの円蓋(ドーム)のごとく

       「死」がそれを踏みくだくまで

       「永遠」が放射する白光をいろどる---死ぬがよい、

       もしおまえが、おまえの求めるものと共にいようとするなら!

       あらゆるものが飛び去ったあとを追え! 

   

                 

                  、、、、

 

    

  話は最初に戻り、非カトリック墓地に戻りますが、、

  このシェリーの息子も、この墓地に葬られています、

  当時3歳のウィリアム、死因はあのマラリア(マラリアについては以前このブログで

  書きましたが、(2012,5,18   6,1) 2編ほど詩を残しているようですが、、

 

           わが失われしウィリアムよ  おまえの中で

           ある輝く魂が生きていた  また

           その輝きをかすかに隠していた

           か弱き肉体も尽き果てた

 

 

     そして、その当の本人シェリーもここに眠っています、

  この人の死因は溺死、

 

           

                 from ; wikipedia

   

     キーツの墓石とは異なって、地面に平たく置かれています、

     刻印されているには、

            彼が好きだったというラテン語 Cor Cordium  (Heart of Hearts)

     そのいちばん下には、これも彼が敬愛したシェイクスピア「テンペスト」より

   

        Nothing of him that doth fade  

        But doth suffer a sea-change

        Into something rich and strange.

 

        朽ち果てるべき身なれども、不思議な海の力得て、貴き宝になりかわる

 

 

       このふたつの言葉、それぞれ彼の友人たちが選んで刻んだもの、、

 

       彼が操縦していたヨットの船名が、エアリエル、、ドン・ジュアンとも

       エアリエル、、テンペストでこのセリフを歌う空気の精霊、

       なんとも、よく、つながったもので、、

        

         

 

   その溺死ですが、イタリア、レリチに住んでいたシェリー、

   船で、リヴォルノのバイロン(1788-1824)のもとへやって来た友人を歓迎に赴き、

   その帰りに嵐にあいます、

 

      それが、キーツの死の翌年、1822年7月8日午後、

      溺死体が海岸に上がったのが、18日、

      すぐにその場に防疫のため埋葬されますが、

      8月16日、再び掘り起こされて、火葬にふされます、

 

   

                from : wikipedia

                     ルイ・エドワール・フルニエ シェリーの火葬 1889年

                                   リヴァプール ウォーカー・アート・ギャラリー

 

         手前3人の人物、一番シェリーの近くにいるのがバイロン

         その左手にいる二人の人物がそれぞれに墓石の文字を選んだひとたち、

 

 

         シェリーのポケットには、キーツが贈った詩集が入っていたといいます、、

 

 

 

    そうそう、このシェリーも、オルペウスを歌っていまして、、、

 

                 、、、、

 

 

    すこし長くなってきました、バイロンやオルペウスの詩については、

    「つづく」 としておきましょう、、

 

 

       それでは、今日はこのへんで、、

 

 

          参考文献等

 

          対訳キーツ詩集 岩波文庫

          新潮社 世界詩人全集 4 キーツ シェリー ワーズワース

          キーツ 詩人の手紙 冨山房

          シェリー詩集 新潮文庫

          対訳シェリー詩集 岩波文庫

          キーツ エンディミオン  西山清訳 鳳書房

          古代ローマ遺跡の傍に眠る四人の日本人 

                 元駐中央アフリカ共和国大使  林 要一

   


オルペウス その死

  こんばんは、

  オルペウスを続けます、、

  まずは一枚の壺絵の写真から、

  

                                   from :  Vassil Bojkov Collection. Sofia  

                      BC,420-410

 

           女たちの手にかかってまさに死を迎えるオルペウス

 

    その死後、諸説ありますが、彼の首と竪琴は、ヘブロス河に投げ込まれます、

 

   

                                        from ; wikipedi

            

 

   地図中央上部に縦に書かれた青い文字 Hebros 

   現在ではマリツァ河と呼ばれるようで,バルカン半島最長、480km

   ブルガリアに発し、ギリシア、トルコ、そして再びギリシアを流れエーゲ海に至ります、、

 

  先回も登場しました、オウィディウスの転身物語には、

 

    その頭部と七弦琴は、ヘブルスよ、おまえの流れが受け入れた。

    すると、不思議なことに、七弦琴は、流れの中央を流れながら、かすかな

    悲しみの調べをかなで、死んだ舌も、なげきの歌を口ずさみ、両方の

    岸部が、悲しみながらそれにこだまを返した。

    こうして、頭と琴は、海へとながれくだり、ふるさとの河と別れて、

    メチュムナのあるレスボス島の海岸にたどりついた。

 

                 とあります、

         レスボス Lesbos  上の地図、下部右寄りの島

         河口からは200kmは離れていそうですが、

           

       女性詩人サッポー(BC7世紀〜6世紀)が女性に対する愛を歌った作品を

       残したことから、レスビアンの語源になった島ですが、

       この言葉自体は19世紀頃からのもので、、その他にも多くの文人を輩出

       しているのは、彼の首と弦琴が流れ着いたためという説も、、

 

      

                 from ;THEOI GREEK MYTHOLOGY

            Antikenmuseum Basel und Sammlung Ludwig, Basel

 

    こちらはレスボス島で彼の首を引き上げようとしているところ、

    左手には彼の琴を持って立つ母カリオペの姿が、、

    面白いのは、オルペウスがパッチリと眼を見開いている様子、、

 

 

   もう一枚作品を挙げてみますが、

   こちらは1866年のパリのサロン(官展)に出品され、そのままフランス国家買上げ

   となり、当時リュクサンブール公園内にあった国立近代美術館で展示されたもの、

   作者はギュスターブ・モロー(1826−98)、

   彼の生前に、一般公開された唯一の作品といいます、

       現在、オルセー美術館蔵

      オルフェウス(オルフェウスの首を抱くトラキアの娘)  154×99.5

         

      

                         from ; wikipedia

 

     弦琴の上にのった首を持つ女性、

     背後にはヘブルスの流れがみえ、

     右下には交互の向きの2匹の亀、

        亀は悠久の時を表すとともに、甲羅の形が天空、足がそれを支える柱とも、

     そしてすぐ後ろにはレモンの花

        哀悼の思いと神の慈しみ・栄光を表します、

     上部に描かれた岩山の上に、3人の人影がありますが、

     これを牧人たちと見るならば、ずっと以前に触れました、プッサンの

     フランス絵画の古典的名作「アルカディアの牧人たち」(2014.10.9.記)を

           連想させます、、

        3人の牧人と、女性と、墓石、この墓石の代りがオルペウスの首と弦琴、、、

       付け加えるならこのオルペウスのモデルはミケランジェロの「瀕死の奴隷」

       (ルーブル美術館蔵)の石膏マスクといいます、、

   

                              

                                            from ; pinterest

 

 

   

   このオルペウスの首と弦琴という組み合わせ、

   モローの創作かどうかは判然としませんが、以後これを踏襲する作品が、

      

      

            from ; Musées royaux des Beaux-Arts de Belgique

                       ジャン・デルヴィル(1867−1953)「オルペウスの死」 1893年 

               79.3×99.2      ベルギー王立美術館蔵

         海岸に流れ着いたオルペウス、、

         こちらは画家の夫人がモデルとか、、

 

   

   もう一枚、オディロン・ルドン(1840−1916)

 

       

                  from ; the cleveland museum of art

           アメリカ クリーブランド美術館蔵 66.8×56.8

                       1903〜10頃

     デルヴィルとは異なって山が背景、

     レスボス島にも900m級の岩山が聳えています、

 

     ルドンは生来あまり丈夫な方ではなく、結婚も40歳の時、その6年ほど後に

     念願の長男が生まれますが、その子を6カ月で亡くします、

     その3年後、49歳のときにやっと一人息子である次男をさずかります、

     

     この頃から彼の画風は色彩豊かになり、生命を謳歌するようなものに

     変わってゆきます、、

     この作品からも、死んだ長男、あるいは生まれた次男の命の息吹のようなものが、

     見えてきますが、、

 

     しかし彼の晩年、第一次世界大戦が勃発し、最愛の息子が出征してゆきます、

     そして、戦地で行方不明に、、

     ルドンは方々を尋ね移動する中、体調を崩し、風邪をこじらせて帰らぬ人に、、

     息子の生存を確かめ得ぬまま亡くなってしまいます、、

     この作品をみると、、、

 

                      、、、、

 

 

   さてさて、余談ばかりになっていますが、

   最後もそれを受け継いで、、

 

   南アメリカ、ウルグアイ出身の詩人・著述家のものから引用をしてみましょう、、

   彼の両親は共にフランス人、父方の兄弟の銀行を手伝うために来ていた

   ようですが、彼が生まれて8カ月の時、里帰りに帰国した際に、両親ともを

   水道管に含まれていた緑青が原因で次々に亡くしています、、

   その後2年ほどスペイン バスク地方に住む母方の祖母のもとに引取られますが、

   ふたたび、ウルグアイの伯父のもとでほとんど実子として育てられます、

   しかし、9歳のときに自分が養子であること、父母の死を知り、愕然とはするも

   翌年には再びパリへ移り中学へかようように、

   そんな中、10代の後半になると、ウルグアイの自然が忘れられず、毎年のように

   夏休みに帰っていたようで、結婚もここで知り合った女性とモンテビデオで

   しています、

   最終的にはパリを拠点としたようですが、、

 

   その人物、ジュール・シュペルヴィエル(1884−1960)

   彼は、いくつかの短編小説も書いていて、そのなかに 「オルフェウス」(1950年出版)

   と題されたもの、、8ページほどの短い作品ですが、その最後の部分を、、

            

              

                   from ; abebooks

                                           アンリ・ マチスの挿画です

 

 

    切り離されてもまだ音楽を宿す首と、波に浮く竪琴だけに帰してなお、

    詩人は、小さな声でエウリディケの愛を歌いつづけた。彼の唇は、

    死んでから数時間たつと、やがて来るべき詩人たちにしか理解

    できないような新しいイメージ、美しい響きをつぶやいていた。

    すぐそばにある竪琴はまだ主人に仕えようと、あやつる手もないまま

    霊魂の間欠的な息吹きにはじかれ、いまやひとりでに、まるで暗譜

    しているように、思い出をとぎれとぎれに奏でている。

    そして時おり波のうねりに運ばれてすこし遠ざかったかと思うと、

    次には、オルフェウスの頭に触れるまでに近づくのだった。 

 

   

    さても、とりとめもなく書いてしまいました、

    オルペウスの死に関してはまだ諸説あるのですが、、

 

     、、今日はこのへんで、  

 

   

         参考文献、新たに挙げるものとして

 

          シュペルヴィエル短編集「海の上の少女」 みすず書房

          野村喜和夫 「オルフェウス的主題」 水声社

          ジュヌヴィエーブ・ラカンブル 「ギュスターヴ・モロー」 創元社

          世界美術大全集 第24巻 世紀末と象徴主義 小学館

    

           


秘教 オルペウス

   こんばんは、

   オルペウスをすこし続けますが、

   まずは、ルーブル美術館にある石棺から

 

                                                     from ; musee du louvre

       ローマ時代、2世紀前半のものです、

       ナポレオンがイタリア・ローマから持ち帰ったもの(略奪)

 

   上下2段に分かれていますが、下段には9人の女性、

 

      ヘシオドス(紀元前700年頃活躍)の神統記に、

 

      彼女たちを ピエリアで 父神ゼウスに添寝して 生みたもうたのは

      エレウテルの丘陵を治めるムネモシュネ

      彼女たちを 災厄を忘れさせ悲しみを鎮めるものとして生みたもうたのだ。

      すなわち賢いゼウスは 九夜 彼女と臥せられた

      不死の神々から遠く離れたところで 彼女の聖い臥床にのぼって。

      だが一年が過ぎ 季節が巡り

      幾度も月がかけて あまたの日々が経めぐると

      彼女は 9人の娘を生まれた 娘たちはひとつ心をもち

      憂い心もなく 歌に心を注いでいる

      

     9人のムーサ(英・仏記述でミューズ)、文芸を司る女神たちです、

     、、(上部の浮彫は、ゼウスとムネモシュネの睦言の様子でしょうか、、

 

 

     下部、写真左人物から

       クレイオー  巻物・巻物入れを持つ、     歴史をつかさどる

       タレイア   喜劇用仮面・杖・蔦の冠、等   喜劇・牧歌

       エラトー   竪琴を持ったりする        独唱歌

       エウテルペー   笛               抒情歌

       ポリュムニアー                  賛歌・物語

       カリオペー    書板と鉄筆         叙事詩

       テレプシコラー  竪琴             合唱・舞踏

       ウラニアー    運天儀・杖・コンパス     天文

       メルポメネー   仮面・葡萄の冠・悲劇用の靴  悲劇

 

      このそれぞれの役割分担は、ローマ時代になってから確定したようで、

      ギリシア時代のものでは、各自の名前のみの表記しか見当たりません、、

 

 

   さて、その記憶の女神に対するものが、

   2度目の登場、レーテー(忘却)、(2012.7.6記)

   冥界の河、(この河の水を飲むと記憶を失うという) の名前でもあります、

   彼女、3姉妹のひとりで、他はタナトス(死)とヒュノプス(眠り)、ともいいます、、

   しかし、上記ヘシオドス「神統記」には、

 

      さて憎さげな争い(エリス)は 痛ましい労苦(ポノス)と

      忘却(レテ) 飢餓(リモス)と涙にみちた悲歎(アルゴス)たち

      戦闘(ヒユスミネ)どもと戦争(マケ)ども 殺害(ボノス)たちと

       殺人(アンドロクタシア)たち

      紛争(ネイコス)ども 虚言(プセウドス)たち 空言(ロゴス)どもと

       口争い(アンビロギア)たち

      不法(デユスノミア) 破滅(アテ)を生みたもうた これらはたがいに

       ひとつの心根の者どもである。

             

            とも書かれています

                     、、、、

 

 

 

   さて、この二人、記憶と忘却をあげたのは、他でもありません、、

 

     

                  from ; british museum

 

   南イタリア、ペテリアの墓跡から発見された、黄金板とその筒型ケースです、

   大きさは小さく4センチほどのもの、

        (黄金板は他にも様々な地域で発見されています)

   薄い板に文字が書きこまれています、、

 

    汝は冥府の家の左側に、一つの水源があり、その傍らに一本の白い糸杉が

    立っているのを見出さねばならぬ。その水源へは近づくではない。

    しかし汝は、追想湖のほとりに、いまひとつの水源を見出さねばならぬ。

    冷水が流れ出ていて、その前には番人がいる、彼らには次のように言え。

    「わたしは大地と星輝く天の子です。しかし私の民族は、天のみに属して

    います。これは、あなた方ご自身がご存知でしょう。ああ、わたしは喉が

    からからに乾いて、滅びそうです。追想湖から流れ出ている冷たい水を、

    早くわたしに下さいませんか。」

    すると彼らは、聖なる水源から呑む水を汝に与えるであろう、、、

 

   オルフェウス教徒の墓から出土したものです、

   最初の水源がレーテーと呼ばれ、追想湖からのものがムネモシュネ

   呼ばれます、

 

 

   オルペウス教、その特徴はまず、輪廻転生思想にありました、

   本来のギリシア宗教は神を不死のもの、人は死すべきものと、

   その違いを明確にしていましたが、オルペウス教は人も神と同等の起源から

   発生したものとし、死して後、魂は記憶を失って再び生まれ変わると考えました、

 

   ただ、この転生の繰り返しは、苦しみの連鎖とされ、

   これから解放されるための方法を秘教として伝えるもので、

   そのためには、

 

      1、殺生、肉食の禁止

         ギリシア世界では動物の生贄を神前に捧げることを励行していましたが、

         これを禁止、菜食を勧めます、

      2、身を浄める生活、禁欲生活を行うこと、

 

   たとえば、ヘロドトス「歴史」にもこんな文章が、

   彼が触れた唯一のオルペウス教に関してのものですが、

    

    エジプト人の服装は、脚の周りにふさのついたカラシリスという麻の

    肌着をつけ、その上から白い毛織の着物を羽織るようにして着ている。

    しかし毛のものは聖域へは身につけて入らず、遺骸につけて埋めたりも

    しない。それは宗教上禁ぜられているのである。この点では、いわゆる

    オルペウス教およびバッコス教(これらは本来エジプト起原である)、

    さらにはピュタゴラス派の戒律と一致するものがある。これらの宗派の

    密儀にあずかった者は、毛の着物をつけて葬られてはならぬことに

    なっているからである。

 

 

   プラトン、アリストテレスの著作をはじめてギリシア語から英語翻訳した、

   トーマス・テイラー(1758−1835)は1787年に「オルフェウスの神秘的賛歌」

   のなかに、すでにこんな文章を残しています、、

 

                

                              from ; sacred-texts

 

   

    オルフェウスその人に関しては、その人生の足跡は太古の時の流れに

    かき消されてほとんど知られていない。一体誰が彼の生れや年齢、国、 

    環境について確実なことを知り得るだろうか。だが次のことだけは一般に

    認められている通り確実なこととみなしてよい。

    カツテオルフェウスという名前の人間が生きており、ギリシア人のあいだで

    神学を創立し、彼らの人生と道徳の師となり、最初の預言者にして最高の

    詩人であったこと、彼自身ムーサの女神の子孫であり、ギリシア人に

    神聖な儀式と密儀を教えたこと、その知恵の尽きることのない豊富な

    泉からホメロスの神韻やピュタゴラス、プラトンの崇高な神学が生まれ

    出たのである。 

 

 

    

   

   さてさて、ここらで再びオルペウス本人に話を戻しますが、

   その最後について、、

   、、諸説あるようですが、

 

    1、亡き妻以外の女人を近付けないので、トラキアの女たちが侮辱されたと思い、

 

    2、女人を嫌って、美少年を愛したために、

 

    3、冥府より返った後、秘教会を創設し、女人をこれに入れなかったために、

 

    4、アフロディテーがペルセポネーと美青年アドニスをあらそった際、カリオペー

      (オルペウスの母)が、その審判者として公平にその所有を分けたのを、

      アフロディテーが怒って、その復讐に女たちをけしかけたため、

 

    

    女たちは、デュオニュソスの祭りで狂乱のうちにオルペウスを八つ裂きにしたと

    いいます、

 

    もうひとつあるお話は、

    ディオゲネス・ラエルティオスの「ギリシア哲学者列伝」の序章に

 

     しかしながら、哲学の発見を異民族に帰している人たちは、トラキア人の

     オルペウスをも持ち出して、彼は哲学者であったし、しかも非常に昔の人で

     あったと言っている。だがわたしとしては、神々に関してあのような(冒瀆的

     な)ことをあからさまに述べ立てた男を、果たして哲学者と呼んでいいものか

     どうか分からないのである。それにまた、およそ人間の受ける苦しみの

     すべてを、いや、二、三の人が舌先だけでまれに行うような淫らなことさえも

     平気で神々になすりつけている男を、何と呼ぶべきかを知らないのだ。

     ところで、この男は女たちの手にかかって死んだと物語は伝えている。

     しかしマケドニアのディオンにある墓碑銘には、彼が雷に打たれて死んだ

     ことが次のように記されている。

 

        黄金のリュラ琴もてるトラキア人オルペウスを、ムーサの女神たちは

         ここに葬りぬ。

        天高く君臨するゼウスが、火を吹く矢をもて彼を打ち殺したればなり。

    

       

         この文章どうやら2世紀末頃に書かれたようですが、

         反オルペウス思考が表にでています、、

         上でも触れましたが、この秘教、本来のギリシア多神教とは大いに?

         異なっています、、 

                    、、、、

 

       

    このオルペウス、殺された後にも話は続くのですが、

    すこし長くなってしまいましたので、

 

       今日のところはこのへんにしておきましょう、 

 

 

 

          参考文献 新たに加えるものとして、

 

             レナル・ソレル著 オルフェウス教 白水社文庫クセジュ

             バートランド・ラッセル著 西洋哲学史 1 みすず書房

             マンリー・P・ホール著 古代の密儀 人文書院

             ヘロドトス著 歴史 上 岩波文庫

             ポール・カートリッジ著 古代ギリシア人 白水社

             ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」上 岩波文庫

 

 

 


オルフェオ オルペウス

   こんばんは、

   レオナルドからすこし離れましょう、

   、、先回登場しました、オルフェオ に関しまして、、 まずは一枚の作品から、

 

   

 

      サー・エドワード・ジョン・ポインター(1836-1919)作 

         オルペウスとエウリディーチェ 1862年  個人蔵  550×385

 

           地上世界へ向かう二人のすがた、、

 

 

 

   アポロドーロスビブリオテーケー(ギリシア神話)に、、

 

     ビブリオテーケー Bibliotheke  本来は、書庫・図書館とでもいう意味合い、  

     アポロドーロスは紀元1世紀から2世紀のひとで、純粋に古いギリシアの著述に

     基づいて、この作品を著しています、

     全4巻あったようですが、3巻途中から欠落していて、現在残っている写本、

     14種ほどあるようですが、そのすべてが同じようにこの部分の無い状態、

 

       その14の写本、保管場所の内訳は、

 

          パリ、フランス国立図書館に4種

 

          オクスフォード大学、ボドリアン図書館に2種

 

          ヴァチカンに2種

 

          イタリア、トリノ王立図書館に2種

 

          以下各1種づつ

          ローマのバルベリーニ宮

 

          ナポリ国立図書館

 

          ロンドン、大英図書館

 

          フィレンツェ、ロレンツォ・メディチ図書館

 

               from; some manuscript traditions of the Greek clasics

 

 

     しかし、1885年になって、新たにヴァチカン宮で14世紀末頃書かれた写本が

     見つかり、それには上記14写本の欠落部分の要約が筆記されていました、

     そしてその2年後1887年には、現在はエルサレムの長老文庫に保管されて

     いるようですが、もとは、聖サバス修道院に保管されていた写本にも同じ

     要約の部分が発見されています、

 

          

                   from  vatican library

 

         こちらは、ヴァチカン図書館の要約部を含む写本

         装丁に三匹の蜜蜂を配した、教皇ウルバヌス8

         (在位1623−44年)の紋章(バルベリーニ家)が

         刻印されています、

         在位中に所蔵したのでしょうか?

 

     もう一枚画像をあげるなら、

 

       

                            from : publi mainq

 

         パレスチナの砂漠にそびえる聖サバス修道院、

         現在も修道僧たちが起居しているといいます、

                    、、、

 

 

   さて、前置きが長くなってしまいました、

   (いくらでも、のめり込んでゆく恐ろしい蟻地獄の世界からは離れて)、

   その、アポロドーロスのギリシア神話、オルペウスのくだり、、

 

     カリオペーとオイアグロスから、しかし名義上はアポローンから、

    ヘーラクレースが殺したリノスおよび歌によって木石を動かした吟唱詩人

    オルペウスが生まれた。

    オルペウスはその妻エウリュディケーが蛇に噛まれてなくなった時に、

    彼女を連れ戻そうと思って冥府に降り、彼女を地上にかえすようにと

    プルートーンを説き伏せた。プルートーンはオルペウスが自分の家に

    着くまで途上で後ろを振りむかないという条件で、そうしようと約束した。

    しかし彼は約を破って振り返り、妻を眺めたので、彼女は再び帰って

    しまった。

 

    オルペウスはまたディオニューソスの秘教(ミュステーリア)を発見し、

    狂乱女(マイナデス)たちに引き裂かれてピエリアーに葬られた。

     

     

   いたってシンプルな記述です、

   

   このオルペウス神話、先回ブログで紹介しましたように、世界初のオペラ演目に

   なるようですが、その後もこの主題でのオペラが続いてゆきます、

   すこし列記してみますと、、

 

         最初の作品はは先回登場しました「オルフェオ」、1480年マントヴァ宮で初演、

    

    1、1600年10月6日、作曲は再登場ヤコボ・ペーリとカッチーニ

      「エウリディーチェ」

      フィレンツェ、ピッティ宮殿、ドン・アントオーニオ・デ・メディチの私室にて、

      フランス王アンリ4世とマリー・ド・メディシスの結婚を祝って、

      もちろん、アンリ4世は不在、代理人をたててのもの、

 

    2、1607年、モンテヴェルディ作曲、マントヴァ宮にて、

 

    3、1617年、ローマにて、ステファーノ・ランディ作曲、

      「オルフェオの死」

 

    4、1646年3月、パリ、ルイージ・ロッシ作曲、

      ルイ14世治下、といえども国王はまだ7歳、パレ・ロワイヤル(王宮)にて

      マザラン枢機卿肝いりで初演、

      作曲家はこの時フランスに亡命していた枢機卿アントーニオ・バルベリーニに

      仕えていた人物、  このアントーニオ、上記ウルバヌス8世の甥にあたります、

      2012年11月6日のブログにて既にふれていますが、

      ヴェネツィアから舞台装置家ジャコモ・トレッリを呼び寄せて大掛かりな上演に

      なります、

 

    5、1726年、テレマン作曲、ハンブルグのオペラハウスで、

      ハンブルグ市の依頼にて製作、

 

    6、1762年、グルック作曲、ウィーン・ブルク劇場で初演

      「オルフェオとエウリディーチェ」

      この楽曲、日本ではじめて、日本人演奏家により上演された歌劇となります、

 

 

   古い順に6つほど挙げました、、

   内容・あらすじに関しては、それぞれに異なっているようで、、

   たとえば、1番、結婚式の演奏では、友人たちの前へオルフェオ、エウリディーチェ

   二人して冥界から戻り喜び合うという設定、

   3番では、ひとり現生に戻ったオルフェオが再び死に、冥界に降り三途に川の渡し守

   カロンの宴席で、忘却の河の水を飲んでしまい、エウリティーチェの記憶を失い、

   父でもあるアポロに救われ、天界へ昇るというもの、、

   6番のものでは、エウリデ―チェを冥界から戻せず、自殺しようとするオルフェオの前に

   愛の神アモ―レがあらわれ、ふたたびエウリディーチェに命を与え、一同が喜ぶ中、

   幕がおりるというもの、

    、、すべて、いうなれば、ハッピー・エンド、、

 

    さてもこれだけ演題として挙げられたのは?

    主人公オルフェオ自身が音楽家歌い手であること、、

    愛と死と別れ、そして復活いう永遠のテーマに関していること、、等々、??

 

 

   ここで、最初に登場しましたギリシア神話に戻りますが、

   高津春繁著「ギリシア・ローマ神話辞典」のまえがきにこんな文章が、、

 

    ギリシアの神話や英雄伝説は、ホメーロス以来幾多の古代の文学者、神話、

    系譜、歴史、哲学、宗教の学者が繰り返し取り扱い、そのたびに内容が

    変わっている。ギリシア悲劇を見てもすぐわかるように時代や作者とともに

    神話伝説の内容が改新されるのがその特徴である。ギリシア神話伝説が

    あの見事な物語を創り出し、今日にいたるまで生命を失わないのは、しかし

    このためである。その上神話伝説は地方によって伝承が相違している、

    まったく相反する話が異なる地方にあったり、同じ話が違った風に各地で

    伝えられている。詩人や哲学者や歴史家は勝手に解釈する、系譜学者は

    諸家の系譜をつじつまを合わせるために、勝手に変更し、いもしない人を

    付け加える。紀元前3世紀以降になると、ロマン的風潮が強くなって、

    新しい恋物語ができあがる。多くの都市はその始祖を勝手に神話伝説中に

    求める。ギリシア神話中の英雄がむやみやたらにイタリアに行かなければ

    ならなかったのはそのためである。

    ローマでもオウィディウスやウェルギリウスなどの詩人が勝手に都合の良い

    ように当世流に変更する。こういう風に混合してできあがったのが近世以降

    の欧州のギリシア・ローマ神話世界である。

 

 

   さて、そこでウェルギリウスの「農耕詩」(紀元前29年頃完成?)からオルペウスが

   振り返って、エウリディーチェを見てしまう場面、、

 

     だが、その時突然、愛するオルペウスは、無分別にも狂気に捕らわれた。

     もしも死霊が許すことを知っているなら、まことに許される狂気だが、

     彼は立ち止り、愛妻のエウリュディケを、もう光明の域に達する寸前に、

     何とわれを忘れ、決意もついえて、振り返ってみた。そのとき、すべての、

     苦労は無駄となり、無慈悲な支配者との約束は

     破られ、アウェルヌス湖には、三度轟音が鳴り響いた。

     エウリュディケは言った。「なんとういう狂気が、オルペウスよ、不孝な私と

      あなたを破滅させたの?

     その恐ろしい狂気はいったい何?ほら冷酷な運命がふたたび

     私をよびもどしています。もう眼は宙を泳いで、眠りに覆われていきます。

     ではもう、さようなら。私は果てしない夜に包まれて、

     力なく両手をあなたに差し延べながら連れ去られます。ああ、もはや

      あなたの妻ではなくなって」。

     彼女はこう言うと、まるで希薄な空気に混じる煙のように、

     たちまち見えなくなり、かなたへ去ってしまった。オルペウスが

     妻の影をつかもうとし、なお多くの言葉を語りかけようとしてもむなしく、

     その姿を、彼女をもう見ることはなかった。

 

   そして、もうひとつ、オウィディウス「転身物語」(紀元8年頃)の場合、

 

     そして、地表の縁からそう遠くないところまで来たとき、やさしい良人は

     妻がおくれはしまいかという心配と妻の様子を見たいという気持ちから、

     ついに後ろをふりかえってしまった。すると、妻は、たちまち後ろへひき

     もどされた。あわてて腕をのばし、良人につかまえてもらい、また良人を

     つかまえようとやっきになったが、つかまえることのできたのは、あわれ

     にもつかまえどころのない空気ばかりであった。こうしてふたたび死の国へ

     つれもどされながらも、かの女は、良人のことをすこしも怨まなかった。

     というのは、自分が愛されていたということ以外に、なにを怨むことが

     あったであろうか。かの女は、良人に最後の挨拶をつげた。しかし、

     それはもう良人の耳にとどいたかどうかわからない。彼女はふたたび

     もとの場所へ落ちていったのであった。

 

   おそらくオウィディウスはウェルギリウスを読んでいたでしょうから、こういう書き方

   になったのかもしれませんが、、

   

   後に初代ローマ皇帝アウグストゥスによって流刑にされ、

   妻を伴ってゆくこともかなわず、時間もなく追いやられるようにローマを去った、

   オウィディウスをここに見てしまいます、、

 

 

 

   さてさて、3種の文章を挙げましたが、

   いかに最初のアポロドーロスがシンプルか、

     (オウィディウスにいたっては4ページにも及びます、)

   しかし、書かれたのは3つの中では、これが一番最後のようです、、

 

     

    今回は、いったい何のお話が本題だったのでしょうか?

 

 

    それでは、今日はこのへんで、

 

       次回は、アポロドーロス曰く、「秘教」のお話をと、思ってはいるのですが、

          

                       、、、、

 

      

        参考文献

        

         アポロドーロス「ギリシア神話」高津春繁訳 岩波文庫

         高津春繁「ギリシア・ローマ神話辞典」 岩波書店

         ウェルギリウス「牧歌・農耕詩」小川正廣訳 京都大学学術出版会

         オウィディウス「転身物語」田中秀央・前田啓作訳 人文書院

         戸口幸策「オペラの誕生」東京書籍

         ヘシオドス「神統記」廣川洋一訳 岩波文庫

                           他

    

 

 

 

 

 

 

 

 

     

    

 

 

   

 

   

 


音楽家たちとレオナルド、そして

   こんばんは、

   今回は二度目の登場になりますか?レオナルド?の作品から、

 

       

             from : wikipedia

         「 音楽家の肖像」 1485年頃 アンブロジアーナ美術館 ミラノ

     未完成ということもあってか、レオナルドの作品ではないという

     こともしばしば言われます、、

     

       当初この作品はレオナルドの信奉者である

       ベルナルディーノ・ルイーニ(1481or2-1532)が描いた

       ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの肖像であると言われていましたが、

       20世紀初頭に行われた絵の洗浄によって、

 

       

       

       手にしている紙片に文字と楽譜が浮かび上がり

       

               Cant Ang  

 

           つまり、Canticum Angelicum 天使の歌

 

       と読みとれることにより、描かれたのが当時ミラノ大聖堂聖歌長であった、

       そして、レオナルドの友人でもあった、フランキーノ・ガッフーリオ(1451-

       1522)の肖像ということで、一応は落ち着いているようです、(異説有)

       

       彼、ミラノ南東ローディ生まれですが、すでに1460年(9歳?)にはミラノ大聖堂

       聖歌隊に入り、1473or4年には聖職につき、その後、地元ローディ大聖堂歌手

       マントヴァ・ゴンザーガ家で音楽理論教諭、ジェノヴァ元首アドルノの教諭兼

       作曲家、ナポリでの音楽活動を経て、何冊かの音楽理論書を執筆し、

       1483年には、ベルガモ大聖堂聖歌隊長、翌年にはミラノ大聖堂聖歌隊長、

       1492年にはギナジウム音楽教授、そして、パヴィア大学教授に、、、

 

                                          、、、、

 

 

   当時、音楽家たちは、より良き待遇を求めてもあってか、各地を転々としていました、

   たとえば、もう一人あげるなら、当時のヨーロッパで最も重要な音楽家・作曲家の

   ひとり、ジョスカン・デ・プレ(1450 or 55-1525)も、レオナルドがミラノを訪れた際、

   当地に滞在中で、おそらくレオナルドとも言葉をかわしているでしょうが、生まれは

   フランドル地方、1474年頃には、先回登場のミラノ公ガレアッツォ・スフォルツァの

   招きでやって来ています、

       このガレアッツォかなり勢力的に音楽家を集めたようで、たとえばナポリ駐在

       大使に宛てての手紙が残っていて、

          「とりわけ王や他のひとたちが、歌手を引き抜こうとしているのが   

          われわれであることを悟られることのないように、くれぐれも注意されたい」

       と、書いています、、

   ガレアッツォ暗殺後、何人もの音楽家たちが、ミラノを離れる中(たとえばフェラーラへ)

   彼はミラノに滞在し続け、ガレアッツォの弟アスカーニオ・スフォルツァ枢機卿に

   雇われ、ローマへ(1486−94)、その後、ルイ12世の招きでフランスへ(1501−3)、

   その1503年には、再びイタリアにもどりフェラーラ滞在、しかしペストを避けて、翌年

   には、生まれ故郷フランドルに戻ります、、

 

 

   さて、最後にもうひとり、レオナルドと共にミラノにやって来たアタランテ・ミリオロッティ

   (1466-1532)、彼1491年には、おそらくレオナルドと共に?、マントヴァへ、そして、

   この地でオペラの主演歌手を務めます、

   演目は、ギリシア神話をもとにした「オルフェオ

   史上最古のオペラ作品ともいわれるものです

   (楽譜は完全な形で残っていないようですが)

   初演時主演は別の歌手でしたが、その二人目の歌手にミリオロッティが選ばれます、

        作詞は当代随一といわれたフィレンツェの詩人、再登場ポリツィアーノ

        (1454-1494)、作曲はマントヴァ宮廷で活躍していた4人のイタリア人音楽家

        達のおそらくは共同作業といいます、

 

 

        レオナルド、アランデル手稿に「オルフェオ」のためのスケッチがありまして、

 

              

                                       from; teatronovecento

 

            下部分の拡大ですが

 

         

                                    from:A.C.N.R.

   

         山が左右ふたつに割れて、中が冥界になるという舞台装置、

         この床の部分に、その下から人物が昇ってくるというものも

         考えていたらしく、現代のものとほとんど変わりません、、

 

       ただ、このスケッチどうやら1506〜08年頃に書かれたようで、

       このマントヴァでの公演に使われたかどうか?

       ただし、もう一回ミラノで、このスケッチが書かれたのと同じ頃に、当時

       ミラノを統治していたフランス人シャルル・ダンボワーズ(1473−1511)

       のために演じたという記録もあるようです、

 

 

   話がすこしそれてしまいましたが、ミリオロッティ、このひとは、ここマントヴァで

   ミラノに帰るレオナルドとは別れ、宮廷に残ります、、

   その後の詳しい動向は残っていないようですが、1513年になってローマ

   レオナルドと再会、この時彼は、ヴァチカンの建築工事の検査官という職務に

   ついていたとか、、

   この年の3月に教皇に就任していたレオ10世(1475−1521)は、

   、、これまた大の音楽好き、、

   

                     、、、、

 

 

   さてさて、そろそろ本題に入ってゆきますが、レオナルド、1517年死の2年前、 

   フランス、アンボワーズの彼のもとに、イタリア人枢機卿ルイジ・ダラゴーナ

   が訪れた際のことが、その秘書の手で書かれています、

  

     1517年10月10日閣下とわれわれの一行は、アンボワーズのある町外れに

    今日もっともすぐれた画家、フィレンツェ人レオナルド・ダ・ヴィンチを訪問

    した。彼は灰色の髭をして70歳をこえている。彼は枢機卿閣下に3枚の絵を

    示した。故ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼による、実物から描かれた

    あるフィレンツェの婦人の像、他は若い洗礼者ヨハネの像、三枚目は

    聖アンナの膝の上にいる聖母子の像で、それらはすべて完璧な出来具合

    である。一種の麻痺が右手を害しているので、彼に実際もはや良き作品を

    期待できない。しかしよく仕事のできるミラノ人の弟子を持っている。

    レオナルド氏は、彼独特の芳香さをもって描くことはできないが、まだなお

    デッサンをし他の人たちに教えることができる、、、

                                                     田中 英道 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」より

 

   レオナルドはこのとき65歳、、、

 

   右手の麻痺、、彼はそもそも左利きですから、たしかに油絵は少し難しいのかも

   しれませんが、、この文章の事実から、決定的に浮かび上がってくる事柄があります、

   それは、もう楽器が、リラ・ダ・ブラッチョが演奏できない、ということ、、

 

     ひとつ例をあげるなら、最初のミラノ時代に、友人でもあった数学者ルカ・

     パチオーリが彼の著作にレオナルドのことを書いていますが、

 

     もっとも威厳ある画家、遠近法、建築家、音楽家、すべての徳をそなえた

     学者   

 

   彼にとって、音楽はこころの中の大きな部分を占めていたとも言えなくはありません、

   そして、彼をとりまく、まわりの人々にとっても、、    

   しかし、この訪問時にはすでに、楽器を演奏することはできなくなっていました、

   この事実がレオナルドにとって、どのようなものであったでしょうか?

 

                 、、、、

 

 

       ということで、そろそろお時間、

       今日はこのへんで、、

 

 

 

           新たに加える参考文献として

 

           グラウト/バリスカ共著 新西洋音楽史 音楽の友社

           E・ガレン著 ルネサンス文化史 ある史的肖像 平凡社

          ピーター・バーグ イタリア・ルネサンスの文化と社会 岩波書店 

 

 

 

       


ミラノ 音楽家レオナルド・ダ・ヴィンチ

   こんばんは、

   まずは、フィレンツェの街のひとつの部屋から始めましょう、

 

         

          メディチ・リカルディ宮マギ礼拝堂

 

      小さな部屋の壁にフレスコ画が描かれています、

        ベノッツォ・ゴッツォリ(1421−97)作

        東方3賢王のベツレヘム(のイエス)へ向かう場面、、

         (1459−61)製作

      メディチ家の人々を中心に描かれていますが、その中に、、

 

  

                from ; wikipedia

                  描かれた人物、左下端、、

 

         

              from : wikipedia

      その右の人、、製作当時は10代半ば、

      ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ(1444-76)、

      後に父親の死をうけて、ミラノの僭主になる人物、、

      フィレンツェを何度か訪問しているようですが、

      

           

                 from : wikipedia

    こちら、 同人物、1471年頃の肖像、ポライウォーロ弟(1443−96)作

        フィレンツェ、ウフィッツィ美術館蔵

 

    ミラノ公になってからの肖像です、

    百合の紋章の上着、正妻がフランス王ルイ11世の妹であったため、

    そのフランス王家紋章でもあり、フィレンツェの紋章も百合であったため、、

    描かれたのは、当時彼が、表敬訪問していたフィレンツェにおいて、

    上のゴッツォリの作品をまねるように、数千の家臣団と共に訪れていた時と

    思われます、

    この人、音楽が大好きで、西欧一の音楽国をめざしていたようで、

    この時は、みずから40人ほどの音楽師を同伴していたといいます、

    そしてフィレンツェ側でその接待に当たった人物が、レオナルドの師匠の

    ヴェロッキョ、レオナルドも既にヴェロッキョの工房で活動していましたから、

    二人は顔を合わしていたとも思われます、

    師のヴェロッキョもレオナルドも音楽を得意としました、

 

 

    ここで、もう一枚肖像画を、、ポライウォーロ兄(1429−96)の製作、、

 

          

          このブログ再登場の、

        ルクレツィア・ランドリアーニ(1640−?)の肖像 

        1465年 ベルリン国立美術館 from : wikipedia

 

    上記ガレアッツォ・スフォルツァの愛妾です、

    彼女、ランドリアーニ伯爵の妻で、二人の子供を授かっていましたが、

    彼女に一目惚れした上記ガレアッツォに強引に妾にされてしまいます、、

 

 

    さて、そのガレアッツォ、父はルネサンスで最も幸運に恵まれた人とも言われる

    フランチェスコ・スフォルツァになりますが、その父親、ガレアッツの祖父に当たる

    人が、フランチェスコを世に送り出す時、3つのしてはならない

    行為を忠告していますが、

 

     1、他人の妻に触れるな、

     2、家来を打つな、もし打ったならその者を遠くへ去らせろ

     3、頑固な馬や、蹄鉄を落としたがる馬には乗るな

 

                        というもの、

 

     こうして明記されるということは、当時えてして行われていた

     ということになりますか、、

 

 

   

   そして、上のフィレンツェ訪問から5年後、とうとう事件が起こってしまいます、、

 

       

                             from : wikipedia

 

    木版画で刷られていますが、そのガレアッツォ、

    1476年12月26日にミラノ・聖ステファノ教会で暗殺されてしまいます、

    実は大変残忍な暴君でもあったようで、部下の何人かの貴族によって、

    命を奪われてしまいます、

 

                  、、、、

 

 

   さて、少しずつレオナルドに近づいてゆきますが、、

 

   このガレアッツォの死後、息子のジャンが幼くしてミラノ公を継ぎますが、

   実権はその執政となった、ガレアッツォの弟ルドヴィーコが握り、

   そしてやがて僭主の地位に、、

 

   そのルドヴィーコのもとに1482年フィレンツェからやってきたのがレオナルド、、

   ヴァザーリは書いています、、

 

     レオナルドは高い評判に囲まれながらミラーノ公のもとにやって来た。 

    公はリラの音を愛し、彼にそれを弾かせるために招いたのであった。

    その折レオナルドは自分の手で作った楽器を持って来たが、それは

    大部分が銀でつくられており、馬の頭蓋骨の形をした奇妙で新しい型の

    ものであった。しかしもっとも高い音でも調和がとれており、響きもよかった

    ので、彼はここに集い競い合ったあらゆる音楽師たちよりも優っていた。

    それに加えて、彼はまたもっとも秀れた吟遊詩人でもあった。

 

   彼を招いたとヴァザーリはレオナルドにとって良いように書いていますが、

   どうやらロレンツォ・メディチの指示でレオナルドは動いたようです、

   持参の銀製の楽器をルドヴィーコに献上するためとか、、

 

           

                  from ; pinterest

 

        復元された馬の頭蓋骨の形のリラ、正確にはリラ・ダ・ブラッチョ

        台座に弓が立てかけてありますが、、

        ブラッチョは腕の意、ビオラやヴァイオリンのように肩から腕にのせて

        弾きます、、

 

 

    レオナルドがいつ音楽の素養を身に付けたのか?

    ヴェロッキョの工房においてか、あるいはヴィンチ村の家族のもとでか?

    いずれにしても,彼は美声と演奏才能にめぐまれ、ミラノに同行した、音楽師

    アタランテ・ミリオロッティ(1466-1532)は彼の弟子だったとも、、

 

    ミラノ到着、「パラゴーネ」と呼ばれる音楽コンクールでは優勝したといいます、、

 

 

    レオナルドはその手稿(ヴァチカン・codice Urbinate)のなかに、、

 

      音楽は絵画の妹と称すべし---「音楽」は『絵画」の姉妹という以外に

      呼びようがない。たとえそれが眼に比べて第2次的な感覚たる聴覚に

     従事し、同時に作り出されて、調和に満ちた一瞬またはそれ以上の時間に

     生まれて死ぬることを余議なくされた比例的な部分部分の結合によって

     ハーモニーを構成しようとも、である。

     その時間がかかるハーモニーを構成する諸部分の比例を包括している

          こと、輪郭線が人間の美しさを生む諸肢体に作用するのと異ならない。

 

     だが「絵画」は「音楽」に勝りこれに君臨する。何故ならそれは、薄幸な

          「音楽」のように、生まれた直後に死にはしない、どころかむしろ存在し

          つづけて、実際単なる一片の平面にすぎないものに生命を吹きこんで

          君に見せるのだから。

          

    絵画を至上の芸術と考えていたレオナルドにとって、音楽もある意味無くては

    ならない存在であったようです、、

    当時、記譜するという行為はあまりなされていなかったようですが、それでも

    手稿に五線譜が見えます、

 

    

             from ; pinterest

 

    鏡面文字で書かれていますが、

 

      amore sol la mi fa remirare la sol mi fa solleita

         

         レソラミファレミ‥‥

           

      愛だけが私に思い出させる 愛だけが私をかきたてる

 

               と、読めるようです、、

 

               、、、、

 

    

     さてさて、とりとめもなく書いてしまいました、

     つづく、としておきましょうか、

     今日のところはこのへんで、、

 

 

        参考文献 以前からのものに加えて、

          ヴィンターニッツ 音楽家レオナルド・ダ・ヴィンチ 音楽の友社

          モンタネッリ ルネサンスの歴史 中公文庫

          高階秀爾 ルネサンス夜話 平凡社

 

          

         

      

 


もうひとりの近しい人‥

  こんばんは、

  まずは、一枚の作品から話を進めていきますが、

 

           

        ジャン・ジャコモ・カプロッティ(サライ)の肖像

         1502〜3年頃 個人蔵   wikipedia より

          サライ(1480〜1524) 20歳過ぎの頃のもの、

 

  このサライについて、ヴァザーリ(1511〜1574)が書いています、、

 

      またミラーノにいる間、弟子としてミラーノ出身のサライを雇ったが、

     上品さと優美さをかねそなえた愛らしい青年で、カールした美しい髪

     をしていた。

     レオナルドはとりわけ彼を愛した。そして彼に芸術上の多くのことを

     教えたが、ミラーノでサライの手になるといわれるいくつかの作品は、

     レオナルドによって筆が加えられている。

 

 

  レオナルド自身も何度も手稿に記録を残していますが、

  最初の記述が、パリにありまして、、(レオナルド38歳の時)

 

      1490年聖女マグダラのマリアの日(7月22日)ジャコモ来りて我と

     共に住む。10歳なり。

 

     泥棒。嘘付き。頑固。大食らい。

 

 

  このメモのあとに、彼の盗みぐせ等を何件も列挙しています、、

  しかし、レオナルドは彼を去らせるわけでもなく、その死まで生涯にわたって彼を

  傍らにおき続けます、

  1508年になっても、手稿にはこんな記述が、

    (この年、レオナルド56歳、サライ18歳)

 

     サライよ私はお前と仲直りしたい。もう絶対に戦争はいやだよ。

     だって私は降参しているのだから、、

 

 

  そして、死に際しての遺言状にも、

 

      同遺言人(レオナルド)は、ミラノ城壁外に所有する一庭園の半分

     すなわち小さい方をば、召使バッティスタ・デ・ヴィラニスに、同庭園の

     他の部分をば召使サライに爾今永久に贈与し譲渡する。

     この庭園には上記サライが家屋一軒を建築したが、この家も爾今永久に

     サライ、彼の嗣子後継者のものとする。

     これみなかれ(レイナルド)の召使デ・ヴィラニスおよびサライがかれに

     対して今までなせる善良にして手厚い奉公の報酬である、。

 

 

       この庭園はレオナルドが1499年にミラノ僭主ルドヴィコ・スフォルツァから

       贈られていたポルタ・ヴェルチェッリーナ外の葡萄園、

       その後レオナルドはフィレンツェ、ローマ、フランス等動き回っていますが、

       生涯手放さず持ち続けていました、、

     

 

  さて、そのサライ、、

  レオナルドが描いた彼の肖像といわれるものをすこし挙げてみますと、

 

              

                    from EONLINE 

            英、ウインザー城王立コレクション

 

        

               ウフィツィ美術館蔵、フィレンツェ 

 

             

                               from; leonardodavinci.net

               祝祭のための仮装 

                 ウインザー王立コレクション

 

        

                     from; wikipedia

              聖ヨハネ像 ルーブル美術館蔵

 

   このサライと男色関係にあったかどうかは置いておくとして、、

 

 

 

   当時のフィレンツェに関して、ある評者はこんなことを書いています、

 

      女性嫌悪、性的快楽の憎悪、そして同性愛への憧憬は、15世紀

      イタリア文化の基本的モチーフである

 

   この傾向を早い段階で危惧した1325年の政府の法令には、こんな条例が、

 

      少年と性的関係を犯し堕落したる者が発見された場合は、

      去勢の刑に処せられる

 

     しかし1365年にはいくつかの修正条項がくわえられ、罪を犯した者に火刑が

     宣告されています、、

     それでも実際にはこの件で有罪判決を受けた者は非常に少なく、1348年から

     1432年までの間で、56人、内死刑が44人、去勢が2人、残りは罰金刑、、

 

     そしてその1432年、人口減少を危惧した政府により再び法改正が行われ、

     夜間犯罪取締局が新設されてより日常的・効果的な検挙が目指されます、

     刑罰も罰金刑が主流になり、その分検挙者も増加します、

     結果、1432年から1502年までの告発者数は1万7千人、内、有罪者3千人

     という数字に、

     告発に関しては、タンブーロ(太鼓)と呼ばれる投書箱が置かれ、それに記載

     されると取調べが始まるというもの、、

 

 

    さて、この投書で、レオナルドは2度にわたって告発されます、、

    証拠不十分で有罪判決には至っていませんが、、

    彼がまず弟子入りしたヴェロッキョの工房にはこの風潮が蔓延していたとも

    いわれますし、兄弟子でもあったボッティチェリも告発されています、、

 

                  、、、、 

 

 

   ここで、話を戻して、そのサライ、

   レオナルドの人生においての最重要人物のひとりですが、

   彼に関して、1991年にミラノ国立古文書館で遺産目録が発見され、、

   その中には12点の絵画作品が記述されていましたが、そのうちに、

 

          レダと呼ばれる絵

          聖アンナいる絵

          ジョコンダと呼ばれる絵(モナリザ)

          大きな聖ヨハネのいる絵

 

       この4点の、現在ルーブルが所有している作品が列記されています、

       この3点になりますか、レダは消失していますから、、

 

            、、、、

 

    つづいて1999年フランスの研究者によって発表された論文に、

    1518年度のフランス王国の予算執行書のミラノ公国の欄に

 

       画家サライ・ディ・ピエトロ・ドレーノに対して、何点かの板絵を

       国王に献上した謝礼として、領収書を提出した場合にのみ、

       2604トゥール・リーブル、3スー、4ドゥニエ支払うこと

 

    という記載が、、、

    1518年、レオナルドの死の前年になります、

 

       さてさて、この両記述の重なりは??

       遺産目録の方は複製絵画になるのでしょうか?

       、、このブログでも何点か挙げましたが、

       もちろん正式な答えは出ていないようです、、

 

 

   こんな風にも登場してしまうサライですが、

   ここからがいよいよ本題になります、、

   先回からの引き続きの「最後の晩餐」

   小オの作品の製作時のレオナルドの年齢が43〜46歳

   サライは15〜18歳、

   二人の関係はミラノ宮廷でどのように受止められていたのでしょうか?

   普通の師匠・弟子あるいは召使の関係ではあり得ないようですが、

   

   それを踏まえて「最後の晩餐」をみると、

   イエスの左側のヨハネをイエスにもたれかかせるように描くと、

   サライとの関係をある意味吹聴するようにも受止められかねなくなります、、

   それをも考えて、あえて女性的なヨハネにしたのでは、、とも思ってしまいます、、

 

               、、、、

 

 

   最後にサライ本人に関してですが、レオナルドの死(1519年)後、

   ミラノにもどり、1523年結婚をしますが、

   翌年決闘で負った傷(銃痕?)がもとで死亡したといいます、(享年44歳)

 

               、、、、

 

 

     もうひとつ、サライについて書かなければならないような気もしていますが

 

         今日はこのへんで

 

          

   

          新たな参考文献

           チャールズ・ニコル「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯」白水社

           高橋友子「路地裏のルネサンス」中公新書

           ヴァザーリ「ルネサンス画人伝」白水社  

        

      


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