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ベルリン日本大使館

  こんばんは。
 すこし日本に関した事柄を、

    まずは、再登場、シュペーアのベルリン都市計画「ゲルマニア」

    

    

     この計画の一環として、1936〜40年にかけて
     第三帝国様式とよばれるナチス様式で、
     モースマハーという建築家によって、
     そして、費用全額ドイツの気前の良い出資によって
     日本大使館が建てらます、
 
        施行主はシュペーアを長とするドイツ帝国建設省

           1936年 日独防共協定
           1940年 日独伊三国同盟  という状況下、、

   この建物が、実は今も健在で、
     
    

 2001年春から再び日本大使館として復活しています、
 ドイツが東西に分かれていた頃の日本大使館はボンに移っていました。
   1970年中頃には、管理人がここで、ニワトリや山羊、うさぎ
   などを飼い、いっぷう変わったベルリン名物になっていたとも言います、

   この建物に対する意見は賛否両論で、
   ここへ大使館が移る際も、建替えすべきかどうかで、
   意見が分かれたようです、

 もちろんこの建物全く被害がなく無傷だったわけではなく、

   ちなみにベルリンの空爆に関しては、
   大空襲(500〜1000機編隊の絨毯爆撃)を受けた回数は
   さすがにドイツ諸都市内のトップ、29回という数字が残っています。

 


 さて、このあたりで、先回の予告?どおり、地下の話に進みますが、
 日本大使館、、
 
   「ここの防空壕は325屬△蝓∈膿卦蚕僂之築された。
   56人収容可能、他に大使とその近臣数名のための
   仕事部屋と寝室が設けられている。」

   「防空壕は大使館地下室と直結され、
   コンクリートの厚さは1m、
   当時最大とされた1トン爆弾の直撃にも耐えることが
   できるよう設計されていた。」
                   と、あります。


 当時の大使館員が記録を残していますが、
 ドイツ戦線最終段階の4月24日のメモの最後に、

   深夜空襲あり、照明弾、曳光弾交錯し、時ならずも
   異様なる美景を現出せり。
   砲撃また甚だしく、砲弾数発大使館近辺に落下す。
   今夜より地下防空壕に宿泊することとせり。


  このころから、電気もこなくなったようで、自家発電に切り替えた
  ようですが、節約のため最小限の使用に抑えたようです、
  風呂桶などを利用してためていた水も残り少なくなってゆきます、、


 この大使館、場所はあの国防省(シュタウフェンベルクの銃殺された)
 から西へ200mほどの場所、総統官邸からは1kmほどの近さです。
 それゆえ、危険性も高い、、


 当時の日本大使、大島浩はすでに14日午後、ドイツ側の勧めで、
 南部ザルツブルク州(現オーストリア)に移ります、

     この大使、そもそも陸軍軍人(最終、陸軍中将)でもあり、
     ドイツ人以上にドイツ的な、とまで評されたりもしていますが、
     戦後、A級戦犯として裁かれ、一票差で死刑をまぬがれ
     終身刑に、昭和30年に仮釈放されています、、

 しかし、館員十数名はベルリンに残ります、
 ドイツ終戦時には、まだドイツ国内(疎開したりして)に
 400人以上の日本人が居つづけたといいます、
 ドイツ敗戦後、当然ベルリンが占領軍の司令部となる可能性が
 高いため、敗戦後の折衝をするためにも、ベルリンを空に
 するわけには、いかなかったようです、、

   さて、その、
   4月25日の記録

   ベルリン放送聴取困難となる。
   赤十字看護婦、大使館を病室として使用したき旨申し込み来るも
   これを拒絶す。
   外出全然不可能となる。
   朝日(新聞)の連中も遂に大使館に移住し来たれり。
   昨今、ドイツ軍兵士にして無断館内に入るもの多くなりしが、
   大使館建物を戦争目的に使用せりとの誤解を避けるため、
   一切の出入りを禁止することとし、掲示その他の手配を行う。

   4月29日

   市街戦たけなわなるとき、天長の佳節を(天皇誕生日)むかう。
   はるかに祖国の前途をおもい、感慨無量なり。
   正午より地下防空壕にて、ささやかなる祝賀式を行い
   日本酒の杯を挙げて皇軍の善戦を祈る‥‥

   5月1日

   本日はメーデーにして同時にドイツの国祭日なり。
   昨今の状況に鑑み奇異なる心地す。
   午後10時、BBC(英国営放送)によれば、
   本日午後ヒトラーが総統官邸において名誉の戦死を遂げ‥‥

   5月2日

   ベルリン最後の日。
   総統の死を悼みかつ館内の警戒のため徹宵す。
   午前4時、屋上に上がり望見せば、三方の火の手が上がり、
   砲声間歇的に聞ゆ‥‥



 ここで、もうひとりの文章を付け加えますと、
 こちらの人物は、特派員としてベルリンに滞在していましたが、
 いちはやくスイスに移っていました、

   「ヒトラーの死に対して、スイスの新聞はあまりスペースを
   割かなかった。
   ヨーロッパの禍いが消滅したことを喜ぶ気持ちは否定すべくも
   なかったが、いまやヒトラーのヒの字も口にしたくないという感情
   が、そこには流れていたのである。
   新聞の短い論評の中には

    まるで野良犬のようにころりと死んでいった。
    人類の禍であったことなど、何のかかわりもないように。
    しかしまさにそれ故に野良犬の死と異なる所がないのだ‥‥

   5月9日午前零時、ヨーロッパに平和がよみがえった。

   この日、チュリッヒ中の教会が平和の鐘を鳴らした。

 


 さて、すこし時間を動かして、1984年、
 上のベルリン記述をのこしていた人物が再度この大使館を訪れています、
 しかし、その時はまだ廃屋状態‥‥

   「正面入口の大理石柱は砲撃によって一部えぐられたままに
   なっており、外壁には弾痕が痘痕のように残っていた。
   大広間のシャンデリアが天井から落ちて骨ばかりになっており、
   床にはソ連軍によって打ち込まれた砲弾の破片が散らばっている、

   篭城中に私たちが起居していた地下防空壕は水浸しになっていた、
   (ベルリンは地下水位が高いため、一度水が入ると抜けない)

   どうにか無傷で残っていたのは、大食堂の隣りのバーだけであった。

   ここにゲッベルス宣伝相夫妻を招待したとき、食後すっかり良い気分
   になったゲッベルスが、余興にピアノを一曲弾いてくれたのも
   この場所であった‥‥
           


     地下室、地下室‥‥
     さてさて、明朝ははやい、ということで‥‥

     今日はこのへんで、
 

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  • 2017.11.18 Saturday
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