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マドリッド、ローマ、それぞれの思惑と消された?記録

   こんばんは、
  少し続けましょう、
  またしてもとんでもない迷宮の中に入り込んでいますが、、

      まずは先回の疑問から

               

       シピオーネ・アマチの著書の表紙を飾っていた絵柄、
    
          

      そのまま、それはローマ教皇パウルス5世の教皇紋
      といえばよいのでしょうか、

   この事柄から、この書物の意味合いが大いに浮かび上がってきます、

   そしてその教皇庁から派遣された著者アマチ、
   スペイン語とイタリア語の通訳として、そして秘書・記録官として、、
      当初からすでにこの本の出版を予定していたのでしょう、、
      先回見ました出版年数からも予測されますが、、

      ドイツ版出版の後、フランス版も出されます、、

      マドリッド出発頃からアマチは支倉に合流します、
      残念ながら、そもそもこのアマチの著書が手元にないため
      多くは語れませんが、、


   この一行のマドリッド滞在は8ヶ月にもわたります、
   そもそも、スペイン上陸以来の滞在費等はスペイン国庫から
   支給されています、
   すでに破綻していたスペインからマドリッド滞在費用も含めると、
   ローマ出発前までですでに現在の日本円で1億近くの費用が
   かかっていたとか、、

   そのうえ、ソテロからローマ行き費用を要求されています、、

      伊達政宗はそんなに彼らにお金を持たせていません、
      研究者によってはこのことからもこの使節を
      政宗自身がほとんど重要視していなかったと
      考える向きもあります、、、

      スペイン王の諮問機関の最重要なもののひとつに  
      インド顧問機関というのがありました、
      外交・軍事・植民地等の事柄にあたる機関ですが、
      この機関は支倉使節をすぐにでも帰国させるよう、
      国王に申告していたとも言います、、
      徳川政権下ではまったく意味をなさないと、
      彼らは見抜いていました、、

      しかし国王フェリペ3世は反対を抑えて、
      彼らをローマへ向かわせます、
      もちろん、お金を持たせて、
            、、、、、、


   たとえば、マドリッドで使節が滞在中、
   ローマのボルゲーゼ枢機卿(教皇庁最重要人物)から
   マドリッド駐在のローマ法王庁大使に手紙で、

      使節が日本へ帰るのあれば、
      当方としても来訪を望んでいるわけではないので、
      おもいどおりにされたし、
           と書き送っていたとか、、

            、、、、、

   

   さてさて、ともかくも、彼らはローマに赴き、
   そしてアマチの著書はその年のうちに出版されたわけですが、

   この著書が、現在、この使節の動向を知る上で、
   もっとも重要な資料とされています、
   もちろん、各国にも、上の手紙や顧問機関資料のような
   様々な記録が残っていますが、、、 


                  ‥‥‥‥

   
   さて、ここで話を完全に飛ばして、
   ある肖像を登場させます、、

             

        江戸後期の蘭学者・蘭医、大槻玄沢(1757-1827)です、

   彼、あの解体新書の杉田白・前野良の弟子で二人から
   一文字ずつもらって名をなのっていますが、、

   大変な大学者のようで、その著書数は300にも及ぶとか、
   その彼には、伊達藩の藩医としての顔もありますが、、
   
   彼の著したもののひとつに、「金城秘韞うん)」というものがあります、
   上下で40ページほどの小冊子ですが

      

   実はこの書物、支倉が持ち帰ったものについても書かれています、

   伊達藩に勤めていた所以から、評定所に収めてあったものを
   回覧することを許されたようで、、

   そのなかに、
  
     切支丹諸道具入箱  壱ツ

      内 一 書物   大小拾九(19)冊
           日本紙に認たるものなりこれは六右衛門(支倉)等
           覚書聞書と身ゆるかな、、、


     そのあとの記述はこう続きます、、、
     決まりもあるので(禁キリシタン)慌ただしく取り上げて
     読むこともしなかった、もっとも読んでも理解できることでもないだろう、
     しかしよくじっくり見れば、遍歴してきた国々のことがらのあらましを
     知ることができるであろう、奇怪なことをただ書いたものとも見えない、
             、、、、

   つまり伊達藩や幕府に気を使ってあまり多くを語っていません、、
   読むこともしなかったと書いていますが、、はたして、、、
          はたして、、、、


   さて、この19冊ですが現在、確認できない状態にあります。


   明治12年頃までは所在が知れていたようですが、、、

       明治12年、、

     以前にも触れましたが、岩倉具視・明治天皇云々で
     最初に調査書「支倉常長南欧遣使考」が出されたのが
       明治9年、
     そして岩倉らの「米欧回覧実記」出版が
       明治11年、

   これから、支倉の名前が世に出ようという矢先に
   行方が知れなくなっています、、、、
          ???

     あまりにタイミングが良すぎます、、
     何らかの理由によって、
     人為的に、闇から闇へ、
     葬り去られた可能性も考えてしまいます、、

     人によっては、残ってはいけない記憶というものもありますから、
          、、、、、


     さてさて、すこしタメイキが出てきました、、
     同時に、イキギレも、、

     というわけで、、それでは、、

     今日はこのへんで、
     
   
    

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  • 2017.10.04 Wednesday
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言霊百神

kototama 100 deities
  • コトタマノマナビ
  • 2015/01/29 8:43 PM
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