こんばんは、
今回もある写真から、、
from:Louvre SPAZIO no.70
アンリ2世(1519-59) (再登場2010.9.〜10 記)の槍試合での死をうけて、
その妻、カトリーヌ・ド・メディシスの1561年の依頼により
5年がかりでひとつの大理石から彫り上げた三美神像、
作者はジェルマン・ピロン(1537-90)
高さは、1,5mほど、ルーヴル蔵ですが、
その付けられている題名が、、
「アンリ2世の心臓記念碑」
頭上の丸い器に、アンリ2世の心臓が入れられていました、、
どうやら今は存在しないケレスティヌス会修道院聖堂(パリ)
に保管されていたようです、、
アンリ2世の身体の埋葬場所は、あの、パリ、サン・ドニ聖堂
(何度も登場しています)、、
当時フランスは分葬(2〜3分割)の習慣があり、
十字軍遠征等の事情から生まれたようで、
傷みやすいイ内臓は死地、心臓は宗教的な場所、
遺骨はサン・ドニというように、、
この風習、ローマ・カトリックは禁止していましたが、、
、、、
さて、その奥さんの、カトリーヌ・ド・メディシス(1519-89)
イタリア・フィレンツェ・メディチ家からフランスへ嫁いだ人(14歳時)ですが、、
彼女生涯に3度、自らのお墓を造っていまして、、
どの順番でこの3つの墓を登場させるかが、大変難しいのですが、、
まずは、2番目に造った墓から、、
作者は上の心臓記念碑と同じ、ピロン、
from:pinterest
夫アンリ2世像は死後硬直によって、のけぞるような姿になっていますが、
二人の肉体は、若々しく、、
たとえばカトリーヌのポーズは、、
from:wikipedia
左右の手が異なりますが、彼女の故郷フィレンツェにある
ボッティチェリのヴィーナスそっくり、、
製作は1565から1570年
、、、、
その最初に、彼女が作ったものは、ルーヴルにありまして、、
1566年頃まで製作されていたようですが、
作者の死によって未完成で終えられています、
from:w3.osaachivum.org
ジローラモ・デラ・ロッビア(1488-1566)作
この人フィレンツェ人でフランス移住組のひとり、
依頼は、夫アンリの死後数年たってから、
最初の「心臓記念碑」と同じころでしょうか、、
当時フランスではまだ中世の名残で、「腐敗死骸像」が主流でした、
先回の「死の勝利」とおなじ流れで、
「メメント・モリ、死を想え」という風潮が色濃く残っています、、
、、、、
そして、最後のものがこちら、、
作者は、またしてもピロン、
年取ったカトリーヌの本来の姿、(2重顎になっています、、
夫アンリ2世も同じように太らされています、、
こちらもサン・ドニにあります、、
製作依頼は彼女の死の6年ほど前(1583年?)、
「死」の時点ではまだ完成していませんでした、
完成は、彼女の死後1590年?
この彼女の体型が本当の姿なら、
さすがに最初の若々しいヴィーナス風のものに納まるのには
気が引けたのでしょうか、、
しかし、時代は、2013.2.19、に挙げました、
彼女の息子の嫁・メアリー・スチュアート墓像とおなじように、
この流行・風潮にあったようです、、
、、、、
さてさて、[死のかたち] として、どうしても登場してもらいたかったものたちを
挙げてしまいました、、
そもそも最初に遭遇したのは、
このあたりからだったでしょうか、
デュ・コーロワ(1549−1609)作曲、
「フランス王のためのレクイエム」1999年製作のCDジャケット、
撮影角度が異なっているため分かりにくいですが、
最初に挙げましたアンリ2世像です、、
、、美しい死曲が流れます、、
蛇足になりますが、、 面白いのは、このジャケット裏面、、
王の足の裏が全面に印刷されています、
、、、、
、、さて、すでに よき時間、、それでは
今日はこのへんで、、
参考資料、先回からのものに引き続き
小池寿子、「身体をめぐる断章」 SPAZIO NO,70
ルーヴル美術館、ホームページ
高階秀爾 「ルネサンスの光と闇」中公文庫 等々