別れ、アレクサンドリア、洋上に死す

  こんばんは。

 今回は、まず最初に、
 社内事情について少し書いてみます。
 と言いますのも、今日(28日)を持って、弊社の若手女性社員が一人、
 退社することになり、「旅立って」行きました。
 このブログ、本来そういった内部事柄に関しては、
 一切触れずにやって来ましたが、
 一緒に仕事をさせて頂いた5年ほどの歳月を振り返り、
 彼女自身の今後の活躍・幸福を祈る気持ちを込めて、
 これから一篇の話を書いてゆこうと思います。


 ‥‥「別れ」をひとつのテーマにして‥‥ 
 

 と言いましても、
 進むべき道が、3本も見え隠れし、
 択一するのに、すこし時間がかかってしまいました。
  その3本の道‥‥

  1、ゲーテから再びヴェネチアに戻るか、
  
  2、まだほとんど何も書いていない「ファウスト」についての何か

  3、登場してしまった、古戦場「ファルサロス(ファルサルス)」


  ‥‥結果、最後まで頭に残り、離れなかった言葉、
  「ファルサロス」 を、続けます。
  まずは、久しぶりに布陣図の登場(レパント海戦以来?)

 
      カエサル、ポンペイウス(赤)両陣営
  
        ポンペイウス軍、 重装歩兵  47,000   騎兵、 7,000
        カエサル軍             22,000             1,000

               距離の数値は黒線1本で1マイル(1,6km)
              四角に斜め線を入れたものが騎兵、
       ポンペイウス軍左翼に位置しています。

           

       兵力には大きな差異があります。

       この前に行われた両軍の戦い(ドゥラキウム包囲戦)では、
       カエサル側が敗走する結果に終わっています。
       ただ、カエサル自身は、部下たちのその過ちを裁くことなく、
       (命令に反しての敵前逃亡は重大な罪で、
       最も重い場合、10人に一人の自分たちの仲間を
       その残りの9人の手によって殺すという罰もありました。)
       カエサル配下の兵たちは自分たちの過ちを認め、
       カエサルに裁きを求めたようですが、
       彼は部下をなんら罪に問うていません。

   そのカエサルの思いにこたえるべく兵たちの士気は上がっていました。
   ただし、兵数では決定的に較差があります。

   方や、ポンペイウス・サイドでは、半ば祝勝気分がすでに生じていた
   ようなところもありましたが、
   如何せん、兵たちには少し経験不足のきらいがあったようです。

   それに気づいてか、ポンペイウスは、
   最前線の兵たちに、槍を低く構えて、踏ん張っているよう、
   と指示して回っています。


   ですから、上の図を見て頂くとお分かりのように、
   ポンペイウス・サイドの兵には矢印が入っておらず、
   入っているのは、カエサル・サイドのみ、
   ポンペイウスは、最初の突撃走時に、その走りでカエサル軍に
   疲労をもたらすこと、そして各隊列の戦闘隊形が崩れることを
   期待・予測していたようです。
   しかし、カエサルの歩兵達は敵軍が動かないのを見て、
   途中で誰からとも無く一旦停止し、隊列を整え、息を整え直して、
   再度突撃しています。

   両軍が本格的に戦闘を開始して
   やがてポンのペイウス騎兵隊が動きはじめます。
   側面から後に廻って、カエサル軍を挟み撃ちにするべく、

   このとき、ポンペイウス騎兵の前に布陣していたカエサル騎兵は
   戦わず道を空けるような形でしりぞきます。
   ここでカエサル軍の伏兵、
   つまり、その時まで横一線に並んでいた兵たちの中から、
   選りすぐいられた、ベテランの強兵たちがにわかに動き、
   騎兵の行く手をはばみ、騎兵の顔面をめがけて、長槍の攻撃をはじめ
   騎兵7000を包囲し殲滅し始めます。

   そして、それを終了させると、
   自軍騎兵と共に、ポンペイウス軍左横部に襲い掛かります。

   これを見た、ポンペイウスは馬に乗って戦線を離れ、
   それを期に、ポンペイウス軍の敗退が始まります。

              
           ポンペイウス像、若い頃は美男でアレキサンダー大王に
           もたとえられたと言います。

  彼にとって、この戦が生涯はじめての敗戦になりました。
  彼は軍人として、スペイン・地中海・オリエントを制圧し、
  ローマで3度の凱旋式をあげています。
  
  プルタルコスはその「英雄伝」のなかで、
  アレキサンダー大王やテセウス、そしてカエサル、アントニウスらとともに
  彼について、一章をもうけています。
  その書き出しが‥‥

    アイスキュロスの戯曲のなかで、プロメテウスは自分を救ってくれた
    ヘラクレスに向かってかく言う、 「父親は私の仇敵だが、息子は我が
    最愛の友である」と。
    ローマ人もポンペイウスという人物に対しては、はじめからこのような
    気持ちを抱いていたかのごとくである。すなわち、彼らは、ポンペイウス
    の父ストラボーに対するほど強烈な嫌悪を、他のいかなる将軍にも
    示したことは無く、彼の生存中はその弓矢の威を恐れ(彼は非常な
    好戦家であった)、彼が雷に打たれて死ぬと、埋葬の際には、その
    遺骸を棺から引きずり出してこれに凌辱を加えた。
    しかるに、息子のポンペイウスに対する彼らの好意は、そもそもの
    始めから絶大なものがあった。まことにローマ人にして、順境に
    おいてもただつのりゆくばかりのかかる厚情、逆境にあっても
    強固で変わることのないかかる好意を世人から受けた者は
    いまだかって在したことがない‥‥

  そんな彼ポンペイウスですが、
  逃げ足は速く、船を調達して、再びの登場アレクサンドリアをめざします。
  彼は中東遠征時、不安定状態にあったエジプト王国を、現在の王を
  即位させることで、平和をもたらしていました。
  しかし、この時点、エジプトは再び内戦状態(クレオパトラと現王)に
  ありましたが。

  彼は快速船に親書をもたせて、エジプトに送り、受け入れを確認して
  5段層のガレー船をアレクサンドリア外港に停泊させます。
    
   
     
  港の外で待てとの王宮からの指示、
  やがて、小型船が迎えにやって来ます、
  彼ポンペイウスは、迎えのものの指示に従って、
  妻や子供たちは船に残し、数名の兵士や側近とともに、船に乗り移ります。
  このとき残っている人々に向けて発した言葉が‥‥

    独裁者のもとにゆく者は
    自由人として赴こうとも
    彼の奴隷となる

     ギリシャ悲劇作者、ソフォクレスの詩句といいます。

  そして、ガレー船から離れ、弓矢の射程距離からもとおのいたところで、
  船に乗っていた刺客たちの手によって暗殺されます。
  ガレー船に乗っていた人々の見守る中‥‥

  
  この4日後にカエサルがこの港にやって来ます。
  その彼のもとに、香油につけられたポンペイウスの首と
  剣を持った獅子が刻まれていた彼の指輪が送られてきた、
  とのことです。
  カエサルはそれを目にして、涙したとも。

  
  ‥‥‥‥
  当初の言葉とは、
  全くもってふさわしくない「別れ」の話になってしまいました。
  

  しかしながら、万感の思いとともに‥‥



  今日はこのへんで。
     
                

ゲーテ と 怪物

  こんばんは。
  道に迷いながら、それでも続けてみます‥‥

           
                    アテネ 考古学博物館

              セイレーン  Σειρήν, Seiren ギリシャ語
       
     
語源は「紐で縛る」、「干上がる」という意味の Seirazein ではないか
     といわれます。

      ここから、各国語が分かれてゆきます、

        ドイツ語   Sirene  ジレーネ
        フランス    Sirène   シレーヌ
        イタリア  Sirena  シレーナ
        英語   Siren  サイレン

                     のっけから、余談になりますが
           英語になるとお分かりでしょう、
           S を小文字にすると、サイレン 号笛、
           の意味合いになります。
            (上記各国語とも、同じです)



  一般的に、ギリシヤ神話のなかで登場する場合は
  セイレーン とか セイレン という日本語表記が用いられますが、

  これが、各国語の全く別種の作品の中での登場 の翻訳となると、
  上記の表記(ジレーネ等々)がそのまま使われたりもします。
  残念ながら、いまとっさにその例を挙げられるほど、
  頭の中を整理できてはいませんが‥‥

  
  たとえば、ゲーテ、「ファウスト」 のなかに、少しだけこの怪物が登場しますが、
  訳文は、さまざま‥‥
       (ちなみに12種ほど翻訳はでているようです、)

     なんといちばん古い、森鴎外訳は、意にかなって
         セイレエン ですが、
     
        高橋健二訳  ジレーネ
        山下肇    ジレーネ
        大山定一  ジレーネ  
        高橋義孝   セイレヌス 
 
          ‥‥‥‥

  さてさて、なにゆえ、このようなどうでも良い話を書いているのか
  ということですが、

  実は、若かりし日々に読んだ 「ファウスト」 
  高橋健二訳、そして、上記の如く、書かれている文字は、「ジレーネ」
  もちろん、セイレーン、に結びつかせて理解するすべも知らず、
  それでなくても難解な?「ファウスト」、チンプンカンプン‥‥
             苦い思い出だけが残っているという始末でして‥‥

         
             ベルリン 古代美術館  紀元前350年頃
   
  
  せっかくですから、その登場場面を少し‥‥

     場所の設定は 「ベネイオス川上流」
     ベネイオス川、あのカエサルとポンペイウスが戦った、
     古戦場(ファルサロス)を流れる川、ローマ史上最大の内戦場所です。
             両軍あわせてのぶつかった兵数8万以上ともいいます、

      メフィストーフェレス
       川べりの白楊(はこやなぎ)の枝に
       揺られて止まっているのは何という鳥。
      スフィンクス
       気をつけなさいよ。相当なものでも、
       あの歌にはしてやられるもんだから。
      セイレヌス
       あなた、どうしてそんな醜い
       化物と親しくなさるの。
       聞いて頂戴、あたしたちは
       こうして群れて来て綺麗な歌を歌います。
       こちらがあたしたちの本分なの。
      スフィンクス(同じメロディーでセイレヌスをあざけってうたう)
       あの鳥たちを引きおろしてしまいましょう。
       小枝の蔭にあお鷹のような、
       おそろしい爪を隠しています。
       うっかり歌に耳をかすと、
       襲いかかってきて殺されます。
      セイレヌス
       憎んだり、そねんだりするにはよしましょうよ。
       青空の下に散らばった、
       清らかな悦びを集めましょう。
       水の上、大地の上で、
       至極愉快にふるまって、
       遠来のお客様(メフィスト)をもてなしましょう。
      メフィストーフェレス
       こいつは厄介な新手(あらて)が繰出してきたぞ。
       喉から出る声と弦から出る音が、
       絡まりあって歌になる。
       あんな歌にはしてやられないぞ。

          ‥‥‥

  さて、ご覧のように、スフィンクスまで登場しています。
  この「ファウスト」第二部、
  登場する人物?怪物や寓意化人物(貪欲・恐怖・希望)を含めると
  160人以上という数になります。
    (時として、頁をめくるごとに新人が、という結果にも‥‥)

  たとえばそのなかの、怪物?たち、だけでも‥‥

      ホムルンクス  錬金術でつくられる人造小人

      エリヒトー  ギリシヤ・テッサリアの古戦場をさまよう魔女

      アスペリオン  一つ目族

      ケンタウロス  半人半馬

      ステュンファロス  ステュンファロス湖に棲む巨大な猛鳥

      レルナの蛇  九つの頭を持ち、斬られても再生するという毒蛇

      ラミア  若い男の血を好む吸血鬼

      イビュコスの鶴  復讐の鳥
 
      エムブーゼ  驢馬の足をした魔女

      シュルミドン  テッサリアに棲む蟻から生まれた種族

      ファルコスの娘たち  三人で一つの目と口を持つ怪物
                見たり食べたりする時は交代でそれを使うという

      スキュラ  6つの頭を持ち男を喰うという海の怪物

      ハルピュイアイ  有翼の女怪。
              自分の食べないものは何でも自らの汚物で汚す

      ケルベルス  冥府の入口を守る三つの頭を持つ怪犬

      キクロプス  一つ目の巨人

      ファウヌス  半人半羊の牧羊神

                   ‥‥等々‥‥


         いやはや、いやはや‥‥
         本当はひとり?づつ、画像をつけてしっかり書けば
         良いのでしょうが‥‥

         「迫り来る時」、ということで、



         今日はこのへんで。


     

人面鳥、セイレーンとしての 

  こんばんは。
 すこし話を後戻りさせます。

    いつぞやの「人面鳥」まで、 片手落ちにならないように
    つまり、西洋版人面鳥を、
          まずはある写真から‥‥

        
         紀元前480年頃の ギリシヤの壷絵  大英博物館蔵

   ホメロス、「オデッセイア」をもとにして?描かれていますが、
   残念ながら、彼自身はこの怪物?の正確な姿を書いてはいません。


     ‥‥まずセイレーンたちのところに来る。
     この女たちは誰であろうと近づく者をみんな魔法にかけて
          魅してしまうのです。
     知らずに近づいて、彼女達の歌を耳にした者には、誰でも家に
          帰って妻やがんぜない子供たちが会うことも、その帰国の喜びに
          接することもできず、いいえ、セイレーンたちは野原に坐って
          その呪わしい歌で魅し、そのまわりは朽ち枯れた骨がうず高く、
          しぼんだ皮が骨についている。
     船を漕ぎ進めてそこを通るのです。部下の人たちの耳には、
          誰にも聞こえないように、甘い蜜蝋をこねてお塗りなさい。
          ですが、あなた自身は、聞きたいと思えば部下の人たちに
     脚速い船のなかで帆柱受けにあなたを立ったまま手足を縛らせ、
     縄の端は帆柱にゆわえさせるのです。
     これで二人のセイレーンの歌を楽しみながら聞くことができます‥‥
                      第12巻


  のちに、既に何度も登場している、オウィディウスが「転身物語」で

     ‥‥歌のたくみなシレネス(セイレーン)よ、
     あのプロセルピナが春の花を摘みにいったとき、あなたがたもその供
     の仲間にくわわっていたことが、そもそもの理由だったのでしょうか。
     まことあなたがたは、むなしくもプロセルピナをたずねて、陸という陸を
     くまなく探し回った後、今度は海にもあなたかたの気遣いをおよぼさねば 
     ならぬと考えて、翼を櫂にして波の上を渡ることができたらよいのにと
     願いましたが、神々はこの願いをお聞き入れになって、
     あなたがたの手足はたちまち樺色の羽毛におおわれたのでした。
     けれども、人々の耳を惹きつけるのが天職であるあなたがたの
     美しい歌声とすぐれた弁舌の才能にとって舌が無くては困るだろうと
     いうので、乙女の顔と人間の声は、もとどおりに残して
     置かれたのです‥‥
     
   
    ウォーターハウス(1849-1917)  1891年 
      National Gallery of Victoria, Melbourne, Australia 

  ある南米の作家は、こう書いています‥‥

     時の流れゆくうちに、セイレーンの姿は変わってしまった。

           (中略)

     ロードスのアポロニウスによると、上半身は女、下半身は海鳥である。
         (紀元前3世紀頃、アレクサンドリア図書館長を務めた後、
          ロードス島に退いたひと。
  
      
                    ローマ時代モザイク  チュニジア バルドー美術館
 
     スペインの劇作家ティルソ・デ・モリーナ(1584-1648)によれば
     「半分女、半分魚」である。
        (400篇におよぶ劇作品を書いたといわれるが、現存は91作品

     これに劣らず議論の余地があるのは、彼女達の性質である。
     古典辞典のなかでランブリエは、彼女達をニンフと呼ぶ。
     キシェラ(1814-1882)では怪物であり、
        (フランスの歴史学者・考古学者
     グリマル(1912-1996)では悪魔である。
        (フランスの古典学者
     
              
       ハーバート・ドレイパー(1863-1920)
        1909  Hull city museums and art Galleries,  England

  こんな記述もあります‥‥

      彼女達は風をおさめる力と、死者を冥府に贈る役目を有するとされ、
      墓石の上に彼女達の姿が見出される。
      古典時代以降次第に美化され、ついにムーサたちと同じく
      音楽の代表者となり‥‥
      さらに、冥界の女神となり、幸福の島の音楽家となっている。
           高津春繁 ギリシヤ・ローマ神話辞典
        (幸福の島 : はるか西方に、幸ある死者たちの住む島、あるいは
         海辺の場所があると考えられていた‥‥


  さて、さて、過ぎゆくのは「時間」のみ‥‥

    「つづく??」としておきましょうか?


    今日はこのへんで


謎の死

  こんばんは。

  さて、思わぬ展開で、チャイコフスキーに関して、4回もブログを書いてしまいました。
  残念ながら?個人的には全く、彼の作品の良き聞者であるとは言いがたく‥‥

    ‥‥しかしながら、ヴァイオリン協奏曲等、一部の作品には 
      あらがいようの無い、魅力を感じているのも実情で、
      ここ何日か、この楽曲がいつも頭の中を駆け巡っていましたが‥‥

             
                            

  
     実は、今回のこのブログ、上の記述のみにして、
     別件を書こうとしていました‥‥
     少し中断して、風呂に入ったところ、急に「コレラ」という3文字を、
     思い出し始めまして‥‥


        というわけで、「コレラ」


    古代からあった病のようですが、
    ガンジス下流地域を原発地とした。
    一時中国や東南アジアにも伝播したようですが、
    世界的流行をみたのは1817年からといいます。
    最初にヨーロッパに入ったのは、1826年からの流行。

    コレラ cholera  
      この名称はギリシヤ人 ヒポクラテス(B.C.460-370) のとなえた「四体液質」
    血液・粘液・黄色胆汁・黒色胆汁 のうちの黄色胆汁 kholl に由来するようです。

       そもそもこの理論は、エンペドクレス(B.C490-430)の四大元素
       火、水、土、空気に呼応する説で
       血液・空気 粘液・水 黄色胆汁・火 黒色胆汁・土 と対比し
       火と結びつく黄色胆汁、つまり当初コレラは、
              熱帯地方の風土病と考えられていました。

    しかし、残念ながら、いつごろこの言葉が生まれたかは
    調べきれていません。
    もちろん、本来はラテン語のようですが。

        
                   

  さて、その「コレラ」
  チャイコフスキーの「一般的」な死因とされています。
  10月21日発症、いったんは危機を乗り切ったようですが、
  尿毒症と肺水腫を併発、25日早朝3時15分心肺停止。53歳。
     (当時のユリウス暦、現暦では11月6日)

  しかし、異説がありまして、
  「強要された服毒自殺説」
  
    あるロシア貴族が自分の甥とチャイコフスキーの男色関係を知り
    皇帝にそれを訴える手紙を書いたところ、
    それが、政府高官の手に渡り、急遽隠密に名誉法廷が開かれ
    19日にチャイコフスキー出廷の元、自殺判決が下され、
    手紙が公開されることを恐れ、砒素系毒薬にて自殺、というもの。

  しかし、そもそも彼の同性愛は国外では公然だったようですし、
  ロシア上流階級にもその仲間が多かったようで、
  少なくとも「死」に価する罪からは遠いのではないか、
  とも言われています。

  ただしコレラというのも唐突で、
  当時のロシア上流階級の人が罹る病気ではなかった、ということもあって、
  (衛生的にかなり気を配られていたため)

     彼が生水を飲んだとされるレストランの店名まで判っていますし、
     通常そこでは煮沸された水が提供されていたとも言います。
    
     コレラという死因は、
     ある意味、ロシア上流階級にとっては、歓迎すべからざる単語
     でもあったようです。
     (衛生的に不行き届きな下層市民が罹るもの、という通念がありましたから)



          
  さて、その死の9日前、10月16日
  彼、チャイコフスキーの指揮によってペテルブルグで初演された曲
  
              

         中央少し左よりに、No6、という文字が見えます。
    この年の2月11日の甥への手紙に
    (この甥にあたる人物に彼はこの曲を捧げています)

       旅行中に私は別の交響曲を着想しました。今度は標題があるのですが、
       誰にも謎となるような名称です。
       ‥‥標題は非常に主観性の強いもので、旅行中にこの曲を心のなかで
       作曲しながら、私はひどく涙を流しました。

      
    しかし、初演の段階ではまだ、この曲、その標題は付けられていませんでした。
     (観客の反応の方も、あまり芳しくはなかったようです)
    その後、発病までの5日間の間に、「悲愴」という名が付けられます。


                そして、むかえる死


        
       
       死から4日後(29日)の葬列には、1万人を超える人々に見送られています。


   この日から8日後 11月6日に開かれた、追悼演奏会でこの曲は再演されます、
   このときは、圧倒的な成功に終り、
   チャイコフスキー自身は、この標題を楽譜表紙に
   刷り込むつもりは無かったようですが、
      
         音楽は標題を付けた形で一人歩きをはじめます。

                     
                
               pathetique   フランス語で付けられています


         さてさて、またしても

         「言葉の終わったところから音楽は始まっているのです」



             今日はこのへんで


三月 レマン湖にて

  こんばんは。

  寒くなりましたね。
  今日の予想気温、最低気温が2℃、最高が9℃となっています。
  完全な冬型気圧配置です。

  さて、ここですこし、このところ登場している地名の気温を書いてみます。
 

                 12月、最高気温、最低      3月最高、最低

     モスクワ           −4℃   −9℃      6℃   2℃ 

     ヴェネチア          7℃     0℃      12℃   4℃

     フィレンツェ          10℃   2℃       15℃   5℃

     クララン(スイス)       5℃    −1℃     10℃   1℃

     ちなみに、神戸        9℃    2.8℃    12.8℃  6℃

    
横道にそれましたが、それでもチャイコフスキーを続けるわけでして‥‥



  先回ブログの、チャイコフスキーが返事を書いた場所ですが、
     クレランス、クララン、Clarens、 3月24日でしたが、

                  

      スイス・レマン湖畔の美しい街です。
      すぐ近くに、夏のジャズ・フェスティバルが開催されるモントルーがあります。


  ここに、彼チャイコフスキーは3月9日、フィレンツェを離れやって来ます。
  何故、フィレンツェを離れたのか?
  どうも、にぎやかな場所柄に辟易し始めたようで、静かな場所を求めての
  転地のようです。
  ただ、このとき、既に3月5日からある曲を書き始めています。
   しかし、3月17日説もあるので、正確には判りかねますが 
   この頃のメック夫人あての手紙に

     運のいいことなんて信じられなかった私ですのに、この頃は時々幸運が、
     稲妻のように閃いているので驚くほかありません。
     ヴァイオリン協奏曲の第1楽章が出来て、明日から第2楽章に着手します。
     この曲は最初から気乗りしていて、その気持ちがずっと続いています。
     こういう状態ですと少しも骨が折れません‥‥


  そして、時を同じくして、以前にも触れました、ヴァイオリン奏者コーテクを
  この地に迎え入れています。
  かって?最愛の人だった?、コーテク、
  この時点でもまだ熱愛していたのでしょうか?
   (完全なる破局はこの年の9月とも?)
  
  ヴァイオリンの技法に関しては、このコーテクの助言を大いにあおぎ
   (弟への手紙に、彼がいなければ何も出来なかっただろう、と書いています)
  1ヶ月足らずで大曲を完成させています。


 
         ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op. 35




  完成したこの曲を、当時のヴァイオリンの第一人者と言われた人のもとに
  持参し、この曲を捧げることと、初演を依頼しますが、

     彼はこれをはっきりと演奏不能と断定した‥‥
     私の想像力が生み出したこの子供は、不幸にも望みもなく
     放り出される運命となった‥‥


  結局、初演は、ライプツィヒ音楽院教授をしていた人物の手で
  ウィーンで、1881年11月22日に行われています。
  結果は惨憺たるもの、
   (当時ウィーンの聴衆はロシアものを好んでいなかった)
  しかし、この曲を誰よりも評価していたこの教授の手で、
  モスクワ、ペテルブルグ、をはじめドイツ・オーストリア各地で演奏され、
  この曲の擁護を行ったことで、徐々に評価されてゆきます。
  ですから、結果この曲はこの人物、アドルフ・ブロツキーに献呈されています。

      

             
   
         とあるジャケットですが、レマン湖が描かれているのでしょうか?

           

                 こちらは、コローのデッサン?




        さて、はたして、この曲に、何を読取ればいいのでしょう‥‥

             離れている祖国ロシア、フィレンツェ、レマン湖?

             コーテク?への 抑えきれない愛‥‥

           
        
        この曲、「のだめカンタービレ」にも登場したようですし、
        フィギュアーの高橋大輔も使用したとのこと‥‥
              
        「言葉の終わったところから音楽は始まっているのです‥‥」
              



               今日はこのへんで。

    

フィレンツェにて

  こんばんは。
  史上最も奇妙な関係?について、続けます。 
  芸術家とパトロンの‥‥

  まずは、一通の手紙から、

                   モスクワ 1874.3.14.  午前2時
     今夜は音楽会にいって、あなたの「スラブ行進曲」を聞いたところです。
     感動は言葉で言いあらわしようがありません。うれしくて涙が出てきました。
     この作曲者が、ある意味では私の人であり、わたしのものであって、誰にも
     奪われはしないと思うとなんとも言いようのないほど幸福でした。
     こんな環境であなたの曲を聞いたのは初めてのことでした。
     貴族会館で聞く時は、いつもおおぜいの競争者がいることを感じ、
     もしかすると、あなたが私を離れて、友人たちのほうに走りはしないか
     と感じます。ところが今夜のように、未知の人にまじって聞くと、
     あなたはまったく私のものであり、誰ひとり私の邪魔をする人はいない
     と感じました。「この人を私が捕らえており、愛しているのです。」

     うわごとを言ってごめんなさい。私がやきもちをやいたからといって
     気にしないで下さい。あなたを拘束することは何もありませんし、
     ただ私が思っているだけのことです。私が希望することも従来以上の
     ことは何も望みませんが、ただ少しばかり形式を変えてほしいと
     思います。というのはこれからは私を普通の友達扱いにして
     「おまえ」という言葉で呼んでいただきたいのです。
     手紙のうえではそう呼びにくいかもしれませんが、
     もしそれが言いにくかったら、従来どおりだってそれは構いません。
     つい先刻はなんだかあなたに抱き寄りたいような気がしました。
     でも、それが思いがけないことのように思われるのでしたら、
     いつもと同じようにさよならと申し上げます。では、さようなら。

     この手紙が無作法のようでしたら、それは音楽のために興奮した
     異常なあたまからでたうわごとだとお考え下さい。
     私がこんな発作に襲われていることをびっくりしないでください。
     今の気持ちはほんとうにどうかしています。


  美しい手紙です、
  先回から続いての登場、フォン・メック夫人のチャイコフスキーへのものです。
  この手紙の届け先は、スイス、ジュネーブ近郊クレランス、


  さてチャイコフスキーの返事ですが、
  結構長いので、部分引用ですが‥‥

                      3.24.
     ‥‥作曲している時はいつでも思っています‥‥きっとあなたに聞いて
     もらえる曲だと思っています。
     あなたにわかってもらえるのだと思えば、どんな誤解を受けても、
     どんな不公平な意見や、ときにはどんな反感を大衆からうけても平気で
     いられます。

     ただお言葉をいただいて案じられることが一つだけあります。
     ‥‥それにふさわしくない自分ではないかと案じるのです。
     これは口先だけの話でもなく、控えめにそう言うのでもありません。
     自分の不完全なこと、自分の弱点をいかにもはっきりと承知しているからです。

     「おまえ」という呼び方に変更することは、勇気がないと出来ませんね。
     あなたとの間柄に偽りやてらいごとがあってはいけないので、なれなれしい
     代名詞で呼びかけたのでは、ぎこちないように思います‥‥

     あなたとおつきあいするにはまず第一に率直でありたいと思っています。
     ですからあなたのご決定にお任せします。

  
  この返事が、 3.31.モスクワ

     あなたの率直で、偽りのないお言葉に感謝します。
     私があなたを愛しているというのも、あなたがそんなお気持ちの人だからです。
     なぜあんな変更をするように言い出したのでしょうか‥‥


  結局、この夫人の願いは実現しませんでした。


  
        
     ここで、一枚の写真に登場してもらいますが、
     一時メック夫人が所有していた別荘(ビラ)です、場所は、あのフィレンツェ
     今はホテルとして運用されているようですが、

  以前のブログにも書きましたが、この二人、
  手紙のやり取りは結構な量になっていますが、実際に逢って話をすることも
  ありませんでした。 


  しかし、このフィレンツェで二人は偶然遭遇します。
  そもそも、フィレンツェへ彼を招いたのはメック夫人ですが、
  自分の散歩の時間などを彼にあらかじめ知らせて、顔を合わせないように
  していました。


      徒歩で街を歩いていたチャイコフスキーと馬車に乗った夫人、
      
      そして、何度かオペラ劇場で、

       しかし、言葉を掛け合うことは、ありませんでした。

  ロシアでも、夫人は自分の傍に彼を招待していますが、
  同じように、外出時間等をあらかじめ知らせて、顔を合わさないようにしていました。

   1879・8・31
  二人が互いに乗っている馬車が偶然、森の小川の細い道ですれ違います。
  すれちがう少し前から、互いに分かってしまっていたようで、
  両者とも当惑しながら、軽く会釈をかわしたといいます。

  どうやら、これはチャイコフスキー側の不手際?だったようで、
  すぐに、彼は夫人に詫び状を入れますが、
  それに対する夫人の返事が‥‥

     あなたは私に会われたことを詫びていらっしゃいますが、
     私は嬉しかったのです!あんなにしてお会いしたことがどんなに嬉しかったか
     知れません。
     あれで実際にあなたがここに来ていると信じられました。
     面と向かってお付き合いしなくとも、言葉を交わさなくとも、どこかの身近い 
     ところにあなたがいてほしいのです。
     フィレンツェの劇場でお会いしたときのように、同じ屋根の下いるとか、
     路上でお会いするとかしたいのです。
     同じように愛し合っているあなたを、作り話としてでなく、実在の人物として、
     感じたいのです‥‥


     ‥‥‥‥

  こういう手紙を受け取った同性愛者チャイコフスキーの心持は‥‥

     ‥‥‥‥



      
      さて、世にも特異な芸術家とパトロンのお話しでした。


      今日はこのへんにしておきましょう‥‥

  

768通の手紙

  こんばんは。
 すこし続けましょう。

   ナジェージダ・フォン・メック と チャイコフスキー

                                

  フォン・メック夫人は、夫を45歳のとき亡くしていますが
   (1876年、チャイコフスキーに最初の手紙を書いた、その年)
  その夫はロシア国内の鉄道を敷設し、膨大な財産を残していました。
    当時の資産家家庭のご多聞にもれず、
  彼女の家庭でも、子供たち(11人)の音楽教師を雇っていましたが、
  その人物が、先回ブログのチャイコフスキーの愛人であり、彼の教え子
  でもあった、コーテク。

  そして、そもそも彼女、それまでのチャイコフスキーの演奏された作品を聞き、
  すでにファンになっていたような人、
  コーテクから、チャイコフスキーの窮乏生活も知り、
  コーテクを通じ彼へ作品依頼を行います。

  その時の彼女のお礼の手紙が、最初のもの。

     ‥‥あなたの作曲がどんなに私を夢中にさせているかなんて申し上げない
     ほうがいいでしょう。そんなお世辞には慣れっこになっているでしょうし、
     私のような音楽に無知なものには褒める資格もありません。
     ‥‥私は心から嬉しかったのであって、これは誰が何といっても
     確かなことです。ですからあなたの音楽を聞くと、私の生活が楽しいものに 
     なるということだけは信じていただきたいのです。
                               1876.12.30.モスクワ

   チャイコフスキーに返事が、

     ご親切なお手紙有難うございます。いろいろな失望や失敗に妨げられている  
     音楽家にとっては、あなたのようにこの芸術を心から熱愛している人が
     たとえ少数でもいることが何よりの慰めです。
                               同、12.30.モスクワ

  教え子が世話になっている人ゆえか、その日のうちに返事を書いています。
  
 
  ここから、二人の「手紙関係」は始まってゆくわけですが‥‥

  

  結果、最終的には13年間で768通以上のチャイコフスキーからの手紙の数に
  なっています。
  二人合わせると何通になるのか?
   (1204通、たいがいは長い、ものによっては非常に長大な手紙を含んでいる)
    (こんな記述も見つかりましたが)
  欧米では、3冊本の全集が出版されているようです。

       768 ÷ 13(年) = 59  59÷48(週)=1.229

     平均すると1週に1通と、多いとは感じられませんが、
     毎日のように書かれていた時期もあったといいます。

     上の最初の手紙の後は、どうやら、次の手紙が2ヵ月後のようですから、
     最初はスローなスタートです。 


  それでも、先回触れました、結婚・別離のいきさつも、彼から夫人へ正直に
  報告されています。
  といいますのも、この結婚から2週間後にチャイコフスキーは夫人に 
  多額の借金の申し込みをしています。
  そしてこの年から年間6000ルーブルという援助を
  彼女から受け取るようになります。

       6000ルーブル 現在の価値でどれくらいになるのでしょう?
       はっきりはしませんが、当時の職人の日当が0.5〜1ルーブル
       ですから、大層な金額であることは間違いありません。

  つまり、これらの夫人からの助けで、療養のための外遊もしているわけです。


  
 先回のヴェネチアからも、もちろん書いています‥‥

     1877.12.21.
        ‥‥今では夢中になって交響曲(4番)を書きつづけています。
    こんなに骨の折れる管弦楽曲はいままで書いたことがありませんが、
    同時にこれほど好きになった曲もありません。
    これがあなたに捧げた曲であると思うと楽しくなります。  
    あなたのおかげが無かったなら、この曲を完成することは出来なかった
    はずです。
    モスクワで万事休すと考えたとき、この草稿のうえに次のようなことを書きました。
    「私が死んだ時はこれをメック夫人に渡してください」
    私は自分の最後の曲の草稿をお手元に届けたかったのです。

    ‥‥空は晴れていますが、寒さが続いています。ではさようなら。

  
  この手紙が、ロシア政府を動かしたのでしょうか?


  もちろん、そんなわけですから、
  この曲、4番交響曲はメック夫人に捧げられています。

       曲の扉には、

         「わが最も良き友に」

       と記されています、この友という文字は男性形
       ですから、「男友達」 という記述になっています。
        (屈折した?彼の心境でしょうか)


  さて、それでこの曲、初演は1878年2月22日 モスクワ
  この時、彼チャイコフスキーはモスクワにはいませんでした。
  滞在していたのはフィレンツェ、
  メック夫人からの電報で、演奏会の成功を知らされています。
  もちろんそれに対して、彼は手紙を書いていますが、
  後で、曲に関してメック夫人より質問があり、それに答えて
  彼が解説を加えています。
    
                 1878.3.1 フィレンツェ
    ‥‥4楽章。あなたが自分の中に幸福を見出せなかったら、
    あたりを見回すがよい。
    人々の中に入ってゆくがよい。民衆の祭りの日の描写。人々の幸福の姿を  
    眺めても、自分を忘れるだけの余裕がないときは、しつこい運命に
    遭遇していることをもう一度思い出させられます。
    他の人たちはわれわれの方に気も配りません。
    われわれが悲しくて淋しいことに気付こうともしません。
    彼らはなんと楽しそうに、愉快そうにしていることでしょう。
    彼らの感情は全くうきうきとして無邪気です。
    それでもなお全世界は悲哀にみちているといえるでしょうか。 
    あどけない無邪気な幸福はたしかに存在しています。
    人々の幸福を喜びなさい。そうすればあなたはなお生きてゆかれる。

    あなたにこれ以上、この曲についてお知らせすることはありません。
    もちろん私の説明は、十分でもなければ、行き届いたものでもありません。 
    しかしここに器楽の独自性があるのであって、
    それを分析することは出来ません。
    ハイネが言ったとおり、
    「言葉の終わったところから音楽は始まっている」のです。


  この手紙には、前年の彼の苦悩がすかして見えてきます。
  そして、回復へ向かおうとしていることも‥‥


  さてさて、時が迫ってきました。
  もうすこし、二人のことを書かなければならないような気もしていますが、


     今日はこのへんで。

       

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